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あめりか屋について

はじめに

京都あめりか屋は、1923年(大正12年)に産声を上げました。その年は、9月1日午前11時58分突如関東一帯において、未曾有の大地震に襲われた年でもありました。以来、平成7年1月17日に阪神淡路大震災、そして平成23年3月11日に東日本大震災を経験し、現在まで約1世紀に近い歳月が流れました。
その間は決して平坦な道のりではありませんでした。事実、大正・昭和から平成へと元号が変わり大恐慌・世界大戦・敗戦・占領・復興・高度成長・オイルショック・バブル・バブル崩壊・リーマンショックと、変化にみちみちた歴史がありました。そして、会社の事業内容も洋風住宅及び和風折衷住宅専門会社から様々な建築物を手がける総合建築会社へと変化してまいりました。

社名について

さて、一風変わったこの社名ですが、あめりか屋の名前から建築会社を思い浮かべる人は少ないと思います。しかし、この名前の由来こそが創業当時の理想によるものなのです。「わが国の住宅は椅子式に改むべし」「来客本位の間取りは家族本位にすべし」「大都市では共同住宅もあるべし」等々の理想を挙げ外出には洋服、帰宅しては和服の二重生活を統一することを夢見て、住宅建築に取り組んだのです。
つまり、日本の気候風土にあい、また日本の生活様式を充分取り入れた日本向き洋風住宅の建築を思いついたのがあめりか屋の濫觴であります。

理想の実現

現在に至り、創業当時の理想はほぼ実現されましたが、ハイカラな住宅会社であったあめりか屋は、ハイカラさつまり、新しさを好む体質、新しさに対する好奇心はいまでも変わらず持ち続け、現在では会社のアイデンティティーとさえなっています。ハイカラな精神とは言い換えれば時代の感性や社会のニーズに敏感であることだと信じております。
その一方、約1世紀の歴史…医院住宅(林内科や革島外科等)、画家のアトリエ(富岡鉄斎画伯の画室を含む住宅や堂本印象先生のアトリエ等)、同志社大学の旧新島会館、ドイツ人建築家ブルーノ・タウト氏と会見した京都山科の井村邸等、さまざまな建築を手がけてきた歴史はかけがえの無い財産だと考えております。その歴史を大切にするという考えの基に、平成2年1月メンテナンス部門であるあめりか屋住宅部を設立し、「良いものをいつまでも」をキャッチフレーズに活発に活動しております。
言い換えますと、古き良きものを大切にしつつ、新しさを求め続ける。つまり、「古くて新しい会社」であり、「新しくて古い会社」でありたいという想いを持ち続けております。

京都の街

京都は、天皇の都城づくりで誕生したという光輝ある歴史を持ち、千百年の繁栄を享受してきた特殊な街であります。そして建都千二百年を迎えたわけですが、その頃の京都は明治天皇の東京行幸で、京都が京都でなくなりつつあった時でした。
まさに衰退への崖っぷちに立たされた明治初期から中期を救ったのは、当時としては大土木事業であった琵琶湖疎水工事でありました。また琵琶湖疎水の水力発電は、京都に我が国初の路面電車を走らせる電力にもなりました。これらよって京都が近代都市として再び息を吹き返すことができたのです。この事実は、建築産業が市民に本当の幸せを提供することができ、そして人の生活と深くかかわっていることを実証していると痛感いたします。そしてそのような大事業ではないにしても、住宅を造ることも同じようなことが言えると考えております。
まだ決して豊かであるとは言えない我が国の〈住〉に関して今後は「永続性のある美と快適さの創造」を理想に掲げ、創業以来培ってきた「あめりか屋らしさ」を見失うことなく、京都らしい街づくりに貢献する方針です。

最後に

最後に、建設業は3Kという言葉がありますように「きつい」「汚い」「危険」と一般の人にはあまり良い印象を持たれてないようですが、我々社員は3Yの言葉「やりがいがある」「(人の)役に立つ」「夢を与えられる」を胸に秘め仕事を続けていきます。建設業に携わる人それぞれがこの姿勢を持ち続ければ、自然と若い人達も集まり、きっと建設産業そのものがより一層魅力あるものになると信じています。
株式会社あめりか屋
〒606-0804
京都府京都市左京区下鴨松原町20
TEL.075-781-3151
FAX.075-701-2838
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