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あめりか屋敦賀店

あめりか屋敦賀店

京都店に勤務していた頃の篠原恒造(最左)
 大阪店のほかに、京都店と深い関わりをもつのが、京都店から独立した会社「あめりか屋敦賀店」である。敦賀店は、初期の京都店にとって重要な役割を果たした社員の一人である篠原恒造(しのはらつねぞう)が後に設立した会社である。

 篠原は大正5(1916)年、京都市中京区三条六角で生まれた。京都市立第一工業学校を卒業後、昭和11(1936)年に京都工芸繊維大学の前身である京都工業専門学校を卒業し、京都店に入社する。入社前年の昭和10(1935)年に開催された日本建築学会主催の「第9回懸賞設計競技」では銀杯を受賞した。入社当時20 歳だった篠原は、設計部の首藤の下で働き、磯十郎らから実力者として高く評価された。入社後の昭和13(1938)年に住宅改良会主催の「全国住宅懸賞設計競技」で入選し、その他の懸賞でも入選・佳作を何度か受賞している。篠原は図面を引くのが好きな生粋の技術者であった。昭和12(1937)年に開催された「中流住宅懸賞設計図案」の審査記には、入選者に選ばれた際の篠原の感想が寄せられている。


実は締切間際の一週間前になつて急いで仕上げたので、あの拙作が入選しようとは思つても居りませんでした。従つて感想なんてあろう筈はありません。設計の主眼点として新興建築美の理想のもとに、日本精神の新しき姿を加味した、中流住宅として此處にいさヽか表現し得たことが吾人の望外の幸福であります。敷地は南への緩勾配地と想定のもとに、南よりの光線を充分取り入れ階段を二ヶ所設置して廊下を少くし、各室の動線を円滑ならしめる様務めました。要求が可成り自由であつたし、用紙一枚に収めよとの規定も非常に結構でした。
(京都市立第一工業学校卒業、あめりか屋京都店勤務)

 その後、篠原は西武福井店の前身である「だるまや百貨店」、芦原温泉の「だるまや旅館」など、特に福井方面の案件に多く関わるようになっていく。福井方面での仕事が増えていくきっかけは、店主の磯十郎が福井県出身であったことと深い関係がある。福井県の作品で、確認できている最も古いあめりか屋の設計施工の建築として知られているのが「大和田荘七邸(大和田荘七家別荘)」である。
 
 大和田荘七邸は、北前船の船主で、大和田銀行の創立者であった大和田荘七(2代目)の別荘で、福井県敦賀市の中心部に建てられたという。建物は現存していないが、『福井県史』に詳細が記されている。これによると、別荘は大正9(1920)年、笙の川近くに建築された。木造3階建てで外壁は漆喰塗りの凹凸のある粗い仕上げの壁(ドイツ壁仕上げ)とし、腰壁は石張り、窓には縦長の上げ下げ窓や縦型のすべり出し窓が用いられた。また、勾配の急な切妻屋根が、南北面と東西面で交差するような形に設計されていた。こうした特徴的な洋風の外観の住宅は、当時の敦賀では珍しく、地域の象徴的な存在であったことがうかがえる。また、『福井県史』には「設計・施工は、当時もっぱら洋風住宅建築を専門にしていた『あめりかや』の京都店と伝えられている」とある。大和田荘七邸が建築された大正9年は磯十郎があめりか屋に入社した年で、このころ京都店はまだ誕生していない。このため、この記述は磯十郎が大和田荘七邸の建築に携わっていたという意味ではあるまいか。磯十郎が福井出身であったことから、入社後に縁ある福井の仕事に関わったものと推察される。
 
 さて、あめりか屋京都店が担当したと伝わるだるまや百貨店は昭和3(1928)年7月、同県初の百貨店として福井市で開店した。『あゆみ:福井商工会議所八十年史』(福井商工会議所八十年史編纂委員会 編)によれば、「木造2階建、本館延べ370坪、市内小売商のための220坪のマーケットを備え、店員は75名であった」という。また、「開店当時は(県内初の百貨店という)珍しさも手伝って顧客でいっぱいになり、店内は夜に近づくにつれて混雑をきわめ、警察当局からはこれ以上客を入れると危険であると注意が出されたほどであった」ようだ。この盛況ぶりは、社内に残された当時のだるまや百貨店の写真からも見ることができる。店主の坪川信一は、尋常小学校・高等小学校の教員や県の教育関連部署の職員、福井商業会議所書記、県議会議員を経て、だるまや百貨店の経営者となっている。こうした経歴から、百貨店の経営にも教育的思想を取り入れていた。『わがまち福井:市制100周年記念誌』(福井市)には、「坪川は、だるま屋の経営理念として、『教育の商業化』、『教育の生活化』を掲げた。だるま屋の幹部は全て教員出身者で、子供むけに『コドモの国』を開設し、『だるま屋少女歌劇』も設立した」とある。
 
 だるまや百貨店が開店した当時、京都店はまだ住宅の設計施工が主で、大規模な商業施設の設計施工はほとんどなかった。大和田荘七邸と同じく、京都店がだるまや百貨店の新築工事を担ったきっかけは不明だが、坪川と磯十郎は、後に手紙などのやりとりをするほど、親交が深まっていた。2人には、教育者としての側面を持つという共通点もあった。磯十郎のふるさとへの思いと、磯十郎と坪川との出会いが実現させた建築だといえる。また、このような大きなプロジェクトに篠原を抜擢したことから、磯十郎が篠原に厚い信頼を寄せていたことがうかがえる。
 
 戦後の昭和26(1951)年3月、京都店の発展に重要な役割を担った篠原は、敦賀市で「合資会社あめりか屋敦賀店」を創業した。敦賀店は、篠原を代表取締役として注文住宅(福井県、とくに敦賀市や三方町)、各市町村学校、敦賀税務署、敦賀警察署、県税事務所、公営住宅および民間会社の建設などを手掛けた。代表的な建築物には旧三方町消防署、旧上中町立上中小学校、旧三方町立気山小学校、大江ビル、柿谷薬局などがある。敦賀店の建築は人気があり、街には敦賀店施工の建築が建ち並ぶ「あめりか屋通り」と称される場所もあったという。敦賀を代表する作品としては、だいらや百貨店の新築工事がある。これは、篠原が設計を担当し、現場には磯十郎の息子である米夫も入り、篠原と共に働いた。ちなみに、「大良屋」は磯十郎の長女・なつ子が嫁いだ林家の家業で、なつ子の夫・弘は、後にだいらや百貨店(大良屋本町店)の店主となった。長女の嫁ぎ先の職場の工事を任せ、それを機に敦賀店としての独立を認めていることから、いかに磯十郎が篠原を信頼していたのかがうかがい知れる。
 
 敦賀店は昭和39(1964)年3月に「株式会社あめりか屋敦賀店」に組織変更した。平成元(1989)年に「株式会社あめりか屋」に社名を変更、代表取締役に篠原憲司を置き、翌平成2(1990)年に敦賀市長沢に新社屋を竣工した。令和元(2019)年、長男の篠原秀和が代表取締役に就き、主に注文住宅の設計施工をおこなっている。


だるまや百貨店 外観
だるまや百貨店 店内の様子
だいらや 集合写真
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