本文へ移動

あめりか屋大坂出張所・あめりか屋大阪店

あめりか屋大阪店

山本磯十郎と松本六郎
 京都店の創業以前、磯十郎は大阪出張所で働いていた。大阪出張所は、大正6(1917)年10月15日にあめりか屋の関西圏の出張所として開設された。松本六郎が所長を務め、事務所は大阪府東区北浜5丁目の日本ホテル内にあった。松本は福岡県出身で、明治45(1912)年に工手学校建築学科を卒業後、あめりか屋に入社し、大阪出張所所長、小倉出張所所長を歴任した。社内にはあめりか屋前庭で撮った松本と磯十郎の写真が残る。

 大阪出張所では、どのような建物を手掛けていたのだろうか。多くの住宅建築とともに大正7(1918)年には兵庫・芦屋に大阪商船(現 商船三井)の社員寮「相信寮」を建設している。戦後、大阪店の店主を務めた前野慶太郎が当時を回顧した文章によると、この事業は「少壮社員ための寄宿舎を建設しようとした。当時は寄宿舎といえば学校や工場に付属するもので、六畳に床の間と押入れをつけた部屋を並べたものばかり。これからの青年社員はどんどん海外に出なければならず、椅子やベッドの生活に慣れねばと考え、あめりか屋に設計を依頼」したという。当時の大阪では、洋式の生活を導入するためにあめりか屋に建築設計を依頼する、というケースがあったとも読み取れる。また、この頃の大阪店の設計部は図面をフリーハンドで引いていて、前野は木造建築の構造図や各種の詳細図を定規なしで描いていたという。

 また、日本建築協会が大正11(1922)年に大阪・桜が丘(現 大阪府箕面市桜ヶ丘)で開いた「桜が丘住宅改造博覧会」では、住宅の展示から販売までをおこなった。日本建築協会は、博覧会前に住宅設計図案を募集。西村が設計した図案が採用され、出品住宅として展示・販売された。博覧会が開催された一帯は、現在も住宅地として残されている。前野によると、出品された住宅は、阪急電鉄をはじめとする阪急東宝グループの創設者・小林一三(こばやしいちぞう)のあっせんで、宝塚歌劇団の坪内士行(つぼうちしこう)と雲井浪子(くもいなみこ)の夫婦が住むこととなった。また、展覧会後に桜が丘で注文を受けて建てられたもう一つの住宅は現在、国の登録有形文化財「今戸家住宅」として保存されている。
 大阪出張所は関西を中心に多くの住宅を建築し、大正12(1923)年にはあめりか屋から独立し、大阪店となった。この年に、前述の前野慶太郎が入社している。

 前野は大阪府立西野田工業高校建築科を卒業後、設計部に配属される。前野の入社当時、大阪店は香川県多度津町で、地元の実業家・武田謙の邸宅を手掛けていた。前野の回顧録には「設計は帝国ホテルの設計者フランク・ロイド・ライトの弟子で、早稲田大学の出身の高島司郎。工事主任は石田敏樹氏、大正十二年起工、同十五年初めに二年半かけて完成しました」とある。また、「この工事の大工棟梁は香川県出身の磯井貞七で、若い頃、台湾総督府の総督官邸工事をしたのが自慢の大工でした。彼はあらゆる木工事に通暁していて、以後、あめりか屋の大工職のほとんどは彼の弟子、孫弟子が継」いだという。 武田邸の工事主任であった石田は福岡県出身で、「大正初期に上京し、私立工手学校を卒業、大正4年に宮内省内匠寮に奉職、その後縁あってあめりか屋本社を経て大阪あめりか屋に配属された」人物である。当時は設計部に配属されていたが、石田の仕事ぶりに影響を受けてか、昭和2(1927)年4月から工事部に配置換えをしている。

 大阪店は大正13(1924)年7月、事務所を日本ホテル内から西区土佐堀船町に移転した。移転理由は事務所の拡大によるものだった。

 昭和7(1932)年には阪神電気鉄道主催の「甲子園住宅建築協議会」に住宅を出品。戦時下では会社名を「建拓社」に改称して運営を続けたが、昭和17(1942)年に店を一時閉鎖。翌年に『住宅』も休刊することとなる。戦後は、昭和20(1945)年11月1日に社名を「あめりか屋」として再出発した。この時、西村に代わって前野が店主に就任。同日、事務所を北区堂島上2丁目に移転した。昭和22(1947)年5月24日には組織変更して「株式会社あめりか屋」となる。社長には前野が就任し、西村は相談役となった。

 大阪店が株式会社となってからは、関係業者との協力会「あめりか屋親交会」を発足し、鉄道会社からホテルの建設などを請け負った。
武田謙邸工事写真1
武田謙邸工事写真2
大阪あめりか屋親交会
TOPへ戻る