戦後のあめりか屋の歩み
Americaya Works of before World War II
第1節 2代目山本米夫と3代目山本隆司の時代
戦後、株式会社化し「株式会社あめりか屋」に
当社は、大正12(1923)年の創業以来、洋風住宅を中心に、社屋や工場、病院、庁舎、商店、アトリエなど幅広い建築物の設計施工を手掛けてきた。この社名は明治42(1909)年、東京であめりか屋を興した創業者の橋口信助が、住宅建築の手本をアメリカに求めたことに由来し、京都店もそれを継承してきた。しかし、戦時中は「山本建築事務所」という名称で、細々と事業を継続することとなった。昭和14(1939)年に第二次世界大戦が始まり、昭和16(1941)年の真珠湾攻撃で日本が参戦したことをきっかけに、交戦国であるアメリカやイギリスなどの公用語である英語の使用が禁止されたのが理由である。
営業を再開したのは、戦後しばらくしてからのことだった。昭和23(1948)年6月19日に再び株式会社化(資本金200万円)し、「株式会社あめりか屋」として、本格的に事業を開始した。
山本米夫が2代目社長に就任
株式会社となった当社は高度経済成長の波に乗り、徐々に売上高を伸ばしていった。昭和37(1962)年3月には、山本磯十郎の三男である山本米夫が2代目の代表取締役社長に就任し、磯十郎は会長職に就いた。
磯十郎とよねの間には、四男二女の6人の子どもを授かったが、長男、次男が幼少時に相次いで病気で亡くなってしまった。両親が大きな悲しみに暮れるなか誕生した米夫は、幼い頃から大切に育てられた。一方、米夫が日本大学建築学科に進学し、あまりにも気ままな学生生活を送っていたため、元教師でもあった磯十郎は米夫に跡継ぎとして期待していたこともあり、もっと勉学に勤しめといった厳しい内容の手紙を何度も送った。卒業後、当社に戻った米夫は、福井で「あめりか屋敦賀店」を創業した実力者、篠原恒造の下で、だいらや百貨店の新築工事に携わった。当時、磯十郎から米夫に宛てた手紙には「篠原君を見習って励んでほしい」と、米夫を叱咤激励する言葉がつづられていた。また、米夫は一時期、会社を背負う責任者として実務の経験を積むために、当社と鐘かねがぶちぼうせき淵紡績(現 カネボウ化粧品)が運営していた建設会社「鐘亞建築」に出向した。
米夫が社長になった昭和30年代から40年代にかけては、東京オリンピックが開催されるなど、日本は空前の好景気を迎えていた。そんな中、米夫は住宅を中心とした事業の拡大化を進め、旅館やレストラン、オフィスビル、工場、マンション、病院、社寺などの建築の施工工事を受注し始めた。その結果、昭和41(1966)年に創業以来初の赤字を計上したものの、その後は順調に業績を伸ばし、創業50周年を迎える前年の昭和47(1972)年には、年商10億円を超える総合建築会社へと成長した。
米夫は会社の先頭に立ち、強引なまでの決断力で社員を引っ張っていった。当時、当社で働き、後に独立して工務店を営んだ松宮建一は、米夫について「人を寄せ付けない独特のオーラがあった」と話す。また松宮は、工務店を独立して開業したい旨を米夫に相談した際に、「あめりか屋を超えられるのなら辞めてもいい」と言われたことが印象に残っているという。その言葉には事業を営むことの厳しさが込められており、松宮はそれを胸に懸命に事業を続けているという。
本社屋の下鴨への移転
当社の事業が拡大していくにつれて、創業以来利用し続けてきた高倉六条の社屋が手狭になってきた。このため、昭和46(1971)年に下鴨神社前の京都市左京区下鴨松原町20番地に本社ビルを新築し、移転した。ビルは鉄筋コンクリート造5階建てで、茶道をたしなむ磯十郎のために、5階に茶室が建築された。磯十郎はこの茶室を愛用していた。この茶室の建設にあたっては前出の松宮の父であり、あめりか屋の大工でもあった松宮与一が携わった。
一方、この頃から日本の経済成長に陰りがみられるようになった。昭和48(1973)年に第一次オイルショック、昭和53(1978)年には第二次オイルショックが起こるなど、日本は低成長時代を迎える。この流れは、当社の事業内容にも変化を与えることになった。磯十郎は創業以来、公共施設の工事にあまり関心を示さず、国や自治体がおこなう工事の入札にはほとんど参加しなかったが、米夫は昭和50(1975)年頃から学校や庁舎などの公共施設の工事の入札にも積極的に参加し、受注高を確保していくようになった。その結果、全体の受注高の10~15%を公共施設の工事が占めるようになり、民間の工事と合わせて順調に業績を伸ばしていった。特に、昭和52(1977)年に15億円だった受注高は、昭和55(1980)年には25億円にまで達した。これは、京都トヨタ自動車株式会社本社社屋、東洋捺染、旅館平新など大型民間工事を続けて受注したことによるものであった。また、この時期、沖縄や静岡の名門ゴルフ場である川奈ホテルゴルフコースなどへ社員旅行に行ったり、クルーズ船を貸し切って瀬戸内海を周遊するなど、社内の懇親行事も盛んにおこなわれた。そして、バブル経済の最盛期の昭和62(1987)年1月、創業者の磯十郎が息を引き取った。前年の昭和61(1986)年12月に百寿を祝ったばかりであった。
当時は、男性が100歳まで生きるのは、非常に珍しかった。日本のバブル経済は磯十郎の死後も続いたが、あめりか屋の施工高は25億円から30億円程度にとどまっていた。当時、工事も多く、受注すれば事業の拡大化は進められたものの、現場担当の技術者の人数から判断し、「品質管理に責任が持てない」と新たな新築工事を断っていたことなども影響したとみられる。
その一方で平成2(1990)年1月、「永続性のある美と快適さの創造」をキャッチフレーズに、過去に自社で施工した建物(特に住宅)のリフォーム・メンテナンスを専門に扱う会社「株式会社あめりか屋住宅部」を新たに設立した。当時はバブル経済の絶頂期であり、大量生産、大量消費の流れの中で、街には新しい建物が次々と建てられていた。そうした中、「良い建物を長く使い続けてもらいたい」という思いから、あえてメンテナンスに力を注いだのである。担当の社員が、これまでに手掛けた建築物を定期的に訪問し、そこに住む人々のニーズを収集して仕事を受注していった。今では当たり前のようにおこなわれているが、当時としては、かなり珍しい取り組みであった。
こうした理由から、当社のバブル経済時の施工高は、他の建築会社に比べてあまり伸びなかった。しかし、バブル経済に乗って急速に事業を拡大せず、地道な取り組みを続けてきたことがバブル経済崩壊後の影響を小さくしたとも考えられる。
平成3(1991)年に入ると好景気にも陰りがみられ、ついにバブル経済崩壊が起こった。
当社の工事の受注も減少する中、平成4(1992)年4月、米夫の次男である山本英夫が当社に入社した。英夫は、早稲田大学大学院理工学研究科を修了後、セメントメーカーに入社し、新建材の開発に携わっていた。家業に携わるつもりはなく、茨城県つくば市にある研究所の実験室にこもり、実験のデータ収集に明け暮れる日々を過ごしていた。その頃、当社は新卒社員の採用に苦戦し、技術者の人手が不足していた。そのため、人手不足を回避するためにも米夫は英夫に入社の打診をおこなった。ただ、英夫は勤務していた研究所で、当時のセメント業界で話題となっていた「球状化セメン」の研究開発に取り組んでいた。そのような研究環境から、毎日顧客や設計事務所の人たちと接触して、仕事を受注していく建築営業を主とした管理職への180度変わる転職に大いに悩んだが、最終的に家業に関わることを決めた。
当時のあめりか屋は、総合建築会社として運営を続けていたものの、パソコンを使っての効率的な作業においては、世に大きく後れを取っていた。英夫は当時の会社の様子についてこう振り返る。「社内にはワープロ1台しかなく、見積書は複写用のカーボン紙に手書きしていました。入札の前日は、受付女性職員が6人全員で残業をして、電卓で検算をしていたのです」。また、図面製図ももちろんドラフターしか使っていなかった。迅速な積算やCAD(Computer Aided Design:コンピューター支援設計)を使った製図で業務を効率化するため、英夫は社長の米夫にパソコンの導入を提案した。米夫は当初、パソコン導入に難色を示していたが、機械を扱うのが好きだった当時の工事部部長である中川眞司が率先してCADに取り組み、それを見た社員がパソコンに興味を持つようになり、徐々に社内に浸透していった。その後は、社内で急速にパソコンが普及していった。
山本隆司が3代目社長に就任
平成6(1994)年12月、山本米夫は代表取締役社長を退き、会長となった。そして、米夫の長男である山本隆司が3代目の代表取締役社長に就任した。隆司は、米夫の長男として生まれ、慶応義塾大学の経済学部を卒業後、3年間東京にて働いたのち、昭和57(1982)年に当社に就職した。次期社長候補として、従来の顧客や設計事務所を中心に付き合いを深めながら、会社の経理業務も担当するようになった。バブル崩壊後の景気がなかなか回復しない中での船出となったが、社内でのパソコン導入後は、パソコンに興味を持ち、独学でソフトを勉強して、社内の作業効率化を進めていった。特に、エクセルについてはマクロを習得し、経理処理・積算業務・文書管理など、会社独自のシステムを構築し、現在においてもそのシステムは重要な役割を担っている。また、近畿圏以外の工事も積極的に受注し、平成10(1998)から12(2000)年にかけて、東京(店舗工事)や愛知(医院住宅)、長野(ホテル改装)など各地に施工実績を残した。
社内においては平成10年、3次元CADソフトウェアを導入。パソコン上で縦、横、奥行きのある立体的な建物のパース図面を作成できるようにした。導入した当初は社内でなかなか浸透しなかったが、平成17(2005)年に所長と女性技術者の2人で企画室を設置し、3次元CADを使った企画提案書(パース図)の作成に取り組んだ。それと同時に、英夫はあめりか屋一級建築士事務所の管理技術者となり、企画提案業務にも力を入れるようになった。施工においては、図面どおりに建設していくのはもちろん、図面に描かれていないものであっても、必要であれば積極的に提案するようにした。こうした姿勢が当社の強みにもなっている。
また、創業当初から社業の中心となっている住宅建築においては、施主の意向に沿いながら、快適に暮らせる住まいを実現するために工夫を重ねた。施主やその関係者がいつ訪れてもいいように、現場に社員を常駐させるという以前からの取り組みを徹底。施主とは綿密な打ち合わせを重ね、設計変更にも積極的に応じるようにした。住宅完成後も、施主の希望があれば細かい改修をおこなっている。
当社の顧客に対する姿勢を表す一つのエピソードがある。高台に建つ注文住宅を施工していたとき、「居間から見える景色を一番楽しみにしている」と話す施主のために、ある程度図面を製作した後に現場で足場を組み、リビングの高さに合わせて仮設の椅子をつくり、施主に座ってもらった。それから窓の位置や形について打ち合わせをし、施工図面に落としこんでいった。英夫は当時を振り返り、「実際に(リビングの高さで椅子に)座ってみないとどういう景色が見られるか分からない、という現場担当所長の判断で、実行しました。お客様は非常に喜んでいらっしゃいましたね」と話す。
しかし、建設業にはどうしても「3K(危険、汚い、きつい)」のイメージがつきまとう。入社以来、採用業務も担当していた英夫は「3Y(やりがいがある、夢を与える、役に立つ)」をPRして採用につなげていった。当社ではオーダーメイドの建築物をつくり上げることに徹底的にこだわり、顧客とコミュニケーションを密に取りながら「お客様の夢を創り上げる」ことを重視してきた。英夫は建設業の魅力をこう話す。「(仕事の成果として)完成させた建物は残ります。ものづくりが形として残るというのは大きな励みになりますし、お客様から『いいものをつくってくれてありがとう』と言われると、『次もやろう』という気持ちになりますね。お金をいただくお客様から、お礼を言われる職種は、なかなか他には無いと思いますよ」
人材の採用、育成は常に大きな課題となっているが、今も当社は建築物の完成をお客様と共に喜び合える人材を育てている。
山本英夫が4代目社長に就任
総合建築会社へと発展していった当社だが、平成22(2010)年1月、会長の山本米夫が進行性の肺がんと診断され、医師から余命3カ月と宣告された。米夫は懸命に抗がん剤治療を続けたが、宣告から約1年後の平成23(2011)年1月25日に息を引き取った。またこの頃、3代目社長の山本隆司は、病床にある義父母の介護のため、やむなく京都から大阪に転居していた。米夫は、「会社の代表は会社の近くにいなければならない」との考えから、「俺が亡くなったら、お前が社長をやれ」という言葉を英夫に残していた。米夫の遺言を受け、亡くなって半年後の同年7月に、それまで専務取締役を務めていた英夫が、あめりか屋の4代目社長に就任した。
当時、サブプライムローン問題、リーマン・ショックと相次いで起こった世界経済の危機は、当社の経営にも大きな影響を与えた。当社は平成21(2009)年平成22(2010)年と2期連続で大幅な赤字を計上し、非常に厳しい経営環境下にあったが、さらに追い打ちをかけるように、リーマン・ショックによるAIJ問題で被害を受けた京都建設業厚生年金基金が立ちゆかなくなった。当社も基金に加入していたため、基金にそのまま残るか、損失の費用を支払って脱退するかの大きな選択を迫られた。なんとか銀行融資により脱退費用を捻出し、基金からは脱退したが、その結果、銀行からの借入金がさらに膨らんでしまった。
そんな中、英夫は社員、特に役員に厳しい経営状況を理解してもらうため、何度も話し合いを重ねた。その上で、役員報酬の大幅なカット、社員賞与の見送り、接待交際費を含む一般管理費の削減といった改革を進めていった。さらに、銀行の短期借入金から長期借入金へシフトするなどの対策を早急に実行した。当然銀行からは経営改善計画書の提出を求められ、中期改善計画として、10年後に年間受注高20億円、粗利益率10%以上の目標を掲げた計画書を提出した。しかし、銀行からは「これからの時代はそんなに甘くない」と一笑に付された。そのため、今まで取引のある銀行だけではなく、新たな銀行との取引も開始した。このときに最も危惧したのは、厳しい環境下でこれらの改革を実行することにより、社員の仕事に対するモチベーションが下がってしまうことであった。将来に不安を抱えながらも、やみくもに新規物件の受注を目指すのではなく、創業以来培ってきた、顧客や設計事務所とのつながりを最大限に活用することとした。これまでに手掛けたスター食堂や渡月亭、ロマンライフ、祇園辻利の店舗、そして個人の顧客などの細かいアフターメンテナンス工事にも迅速に対応できる体制を構築するなど、誠実に仕事をこなしていった。
その結果、10 年後の受注高は40億円を超え、営業利益は過去最高となった。この苦しい時期に社員が一丸となり、工事の大小を問わず、受注した物件については、顧客のニーズに応える建築物を忠実に施工するという真摯かつ愚直な姿勢で全社員が仕事に取り組んだことが、このような成果につながったのである。
その結果、10 年後の受注高は40億円を超え、営業利益は過去最高となった。この苦しい時期に社員が一丸となり、工事の大小を問わず、受注した物件については、顧客のニーズに応える建築物を忠実に施工するという真摯かつ愚直な姿勢で全社員が仕事に取り組んだことが、このような成果につながったのである。
そして平成29(2017)年、当社は平成2(1990)年にメンテナンス専門の別会社として発足させたあめりか屋住宅部を吸収合併した。世の中で建築物を長く使うために改修するリフォームが浸透し、当社の受注高における改修工事の比率も高くなっていた。こうした状況の中、住宅部の社員だけでは顧客のニーズに対応できなくなってきたためだった。
さらにこの年、当社の受注高は45億円を超え、過去最高額となった。底をついた平成21(2009)年の約4倍である。しかし英夫には「リーマン・ショック以降、社員数はほとんど変わらない状況で、受注高がこれほどまでに伸びたのは、建物の品質・工程・安全管理において、どこかにひずみが生じているのではないか」という危惧もあった。このため、第三者の視点で会社規模に見合った適正な受注高、利益を算出してもらうとともに、会社の強み・弱みも分析し、今後のビジョンを策定することとした。
そこで、当社は外部のコンサルティング会社に調査を依頼。調査は平成29(2017)年11月から約7カ月間にわたっておこなわれた。過去10年間の決算書を分析したほか、全社員への聞き取りも実施。顧客や設計事務所、取引先の業者からのヒアリングもおこない、現在の会社の状況や課題を浮かび上がらせていった。その結果、提示された課題をいくつか抜粋する。
・ 社員が高齢化し、若手人材の育成が急務となっている。しかし、新卒者を採用しても仕事がきつい、休みが取れないなどの理由で辞めてしまい、なかなか定着しない
・ 設定している工期が短すぎる案件もあり、現場ではかなり無理をして間に合わせているため、現場での事故のリスクが高い
・ 顧客の利益を優先するのは良いが、幹部や所長クラスでも、会社の利益に対する意識が希薄になっている
・ 各現場では所長がそれぞれのやり方で仕事をおこなっており、施工の品質や利益に対する意識などがばらばらの状態。個人工務店の集まりのようで、会社としての統一性がない
・ あめりか屋のブランドが浸透していない
これらの調査結果を受け、社長の英夫以下、幹部社員らによる今後のビジョン策定に乗り出した。ホテルの会議室を貸し切っておこなわれた2日間にわたるビジョン策定キャンプでは、午前9時から午後8時まで、みっちりとディスカッションなどをおこなった。会社としては初めての取り組みであったが、社員それぞれが会社に対する思いや改善策などを共有する有意義な時間となった。ディスカッションの結果、まとめ上げた企業ビジョンの概要は以下のとおりである。
・ 創業(伝統)の精神を守り、「永続性のある美と快適さの創造」を心がける。後世にもずっと残るような建物をつくり、完成した時はもちろん、10年、15年後にも「あめりか屋に任せて良かった」と言ってもらえる仕事をする
・ 顧客第一主義を遵守し、高い施工品質を維持することはもちろん、施工後のメンテナンスや細かい要望にもしっかりと対応する。難易度が高くても、やりがいのある案件にも挑戦していく
・ 人材の採用・育成・定着に注力する
・ あめりか屋の企業ブランドを浸透させる
これらのビジョンを社内で共有し、ICTツールなども活用しながら、未来に向けた組織・人づくりを進めることとなったのである。
平成中期以降の施工例
平成23 (2011)年を過ぎる頃から、さまざまな取り組みの積み重ねによって順調に新築物件を受注し、当社の業績も少しずつ持ち直していった。ここに、平成中期以降の代表的な施工例を紹介する。
宇治茶の老舗、祇園辻利の案件も大型の新築物件の一つで、平成23(2011)年に四条花見近くにある祇園辻利四条店、平成25 (2013)年には八坂通りに祇園辻利本社社屋が竣工。ロマンライフが営む洋菓子ブランド「マールブランシュ」関連では、平成24(2012)年に完成したマールブランシュ北山本店、平成28(2016)年には滋賀県湖南市に製造工場となる湖南スタジオなど、平成25(2013)年には古い建物をリノベーションした福寿園宇治喫茶館を施工した。これらの他にも幅広いジャンルの建築物に携わった。平成25(2013)年に竣工した天然温泉施設「宇治天然温泉 源氏の湯」などの多くの人を楽しませる
アミューズメント施設や、平成22(2010)年に京都・嵐山の景観規制により約7m掘削し、地下に本堂を設けて、内陣に本尊と御真影を安置する珍しい構造の本願寺本堂、平成24(2012)年には本町ナザレン教会、平成28(2016)年の天が瀬瑠璃光院瑠璃堂などがある。スーパーでは阪急オアシス梅津店、いかりライクス常盤店など、城陽では延べ4000㎡を超える大規模な社屋兼倉庫のジャペル関西支店も手掛けた。
アミューズメント施設や、平成22(2010)年に京都・嵐山の景観規制により約7m掘削し、地下に本堂を設けて、内陣に本尊と御真影を安置する珍しい構造の本願寺本堂、平成24(2012)年には本町ナザレン教会、平成28(2016)年の天が瀬瑠璃光院瑠璃堂などがある。スーパーでは阪急オアシス梅津店、いかりライクス常盤店など、城陽では延べ4000㎡を超える大規模な社屋兼倉庫のジャペル関西支店も手掛けた。
また平成28(2016)年5月、単独工事としては請負額が過去最高となる京都久野病院増築工事を受注した。同病院とは、昭和60(1985)年の増改築工事を受注して以来、付き合いが続いている。診療を続けながらの工事であったため、まず増築工事を終えた後、そこに患者を移動させ、空いた病棟を解体・新築するという難しい工事であったが、社員5人が常駐することにより、無事故、無災害にて平成30(2018)年、無事竣工を迎えることができた。また引き続いて、京都久野病院が経営する地域密着型特別養護老人ホーム「レット・イット・ビー」およびリハビリに特化した施設「デイサービス ロコモーション」を完成させている。
このように、平成20年代の後半に入ると、日本経済にも回復の兆しがみられ、新築工事や改修工事の需要も高まっていった。新しい流れとして、待機児童の解消と保育園・幼稚園の耐震問題を背景に、園舎の新築工事を続けて受注した。大阪・松原の天美保育園に始まり、京都市内では六満保育園、梅ノ宮乳児保育園、向上社保育園、大谷園林保育園などや向日市のあひるが丘こども園など、平成26年から平成30年の5年間に約10件の工事を施工した。これらの工事に共通する点は、まず園庭などに仮園舎を建て園児を移動させた後に、空になった旧園舎を解体し、それから新園舎を建築する施工手順である。当然、保育園は継続しながらの工事となり、園児の昼寝の時間や、保護者の送り迎えの時間は、作業は制限されるなど、園児を含む第3者の安全管理を含め、現場管理業務は困難を極めた。しかし、現場員の丁寧な仕事が園長先生の間で評判になり、次の仕事を推薦していただくこともあった。
また、解体して新築するという考え方から、既存建築の主要構造材を残して大規模改修するという工法も盛んに取り入れられるようになった。そのような改修工事のなかで、特筆すべき事例として、令和元(2019)年に完成した京都西陣織の老舗、細尾本社社屋の全面改修工事が挙げられる。柱と梁だけを残して解体した建物に、多彩な職人たちがそれぞれの専門技術を施していくという西陣織の協業の精神を生かした建築手法が注目された。
令和の時代になって
平成から令和と元号が変わり、当社も新たな気持ちで社業に臨むこととなった。
コンサルティング会社のアドバイスや、「年間40億円近い受注は現場の管理の質を落とす」といった現場員の声を受け、年間の受注高を25億円から30億円程度に抑え、現場における管理業務をよりいっそう厳しくしようという方針を決めた。そんな矢先に発生したのが新型コロナウイルス感染症である。令和2(2020)年以降、世界的に感染が拡大し、感染を防ぐために人と人との接触を最小限に抑え、リモートワークが推奨されるなど、社会の仕組みは大きく変わっていった。
しかし、当社はコロナ禍においても、感染対策を徹底しながら、受注した案件を着実に進めていった。例えば、マールブランシュの工房直売店舗「ロマンの森」の新築工事では、設計図面を基に、そこで働く人たちや訪れた人たちが快適に過ごせる空間になるよう、設計事務所だけではなく、現場で工事を担当していた現場所長からも細かい改善点を提案し、工事を進めていった。その結果、施主にとっても納得のいく仕上がりとなり、令和2(2020)年10月に完成、オープンした。また、同時期に竣工した京都市発注の公共工事である京都市立京都奏和高等学校は、令和3(2021)年4月に開校した。さらに、翌年3月には、当社が手掛けた過去最大規模の設計施工案件である鉄骨7階建てのホテル杉長がオープンした。この案件では、平成30(2018)年6月から10回以上にわたりプレゼンテーションをおこない、平成31(2019)年3月に設計契約を結んだ。それから数十回にわたる綿密な打ち合わせを経て、令和2(2020)年7月に既存ホテルの解体に着手した。翌年1月から新築工事を進め、令和4(2022)年1月に竣工、3月に無事にオープンすることができた。当社から現場に入った社員は5人。コロナ禍で感染リスクにさらされ、資材調達が難しい中、迫りくるオープンの日にプレッシャーを感じながらも工期内に建物を無事完成させた。ホテル建て替えの話を聞いてから、ホテルが竣工するまで4年近くにわたる長期間のプロジェクトであった。オープン後、ホテル杉長の会長、社長、専務がそろって来社され、丁重なお礼の言葉をいただいた。現場担当者にとっては、望外の喜びであった。時は流れ、建設業界でもICT化が進んでいる。また会社経営においても、人々が持続可能な暮らしをするために環境保全や格差の是正などに取り組む世界共通の行動目標「持続可能な開発目標(SDGs)」を念頭に置いて、事業をおこなうことが求められるようになった。自社の利益だけではなく、環境問題や社会課題、組織の管理体制と向き合いながら持続的な成長を目指す「ESG経営」や、社員らの健康管理を投資と考え、実践していく「健康経営」といった考え方も広く取り入れられている。そんな中、当社は主に以下の取り組みを進めている。
1.DX化
当社が会社の立て直しとほぼ同時に取り組んできたのがIT化だ。建設業界における人材確保や働き方改革を考えたときに、業務の効率化は企業の規模にかかわらず必然的に課題となっている。そこで、社内におけるIT化、DX(デジタルトランスフォーメーション)化を進めるため平成30(2018)年、まずは社内で顧客情報を共有する仕組みを構築。クラウド上で顧客情報を管理して、スマートフォンやタブレット端末などの画面でIDとパスワードを入力すれば、どこにいてもアクセスできるようにした。それまでは、現場にいる社員が顧客について確認したいことがあれば、その都度本社に連絡し、調べてもらう必要があったが、この仕組みの構築により、現場で直接顧客情報を得られるようになったのである。
さらに令和2(2020)年5月、社内で若手社員を中心とした4人でIT推進化委員会を立ち上げ、本格的にIT化を進めた。背景にあったのは、新型コロナウイルス感染症の拡大だ。感染を予防するために人と人との接触が制限され、対面で会議や打ち合わせなどをおこなうことが難しくなった。こうした状況に対応しようとIT推進化委員会が中心となり、外部の専門家の指導を受けながら社内外での課題を洗い出し、優先順位をつけて取り組んでいった。まずハード面から取り組み、社員に社有のスマートフォンやタブレット端末を配付。社内のすべてのパソコンにマルチモニター化を進め、かつパソコン内のHDDをSSDに取り替えて作業効率を高め、オンラインストレージを利用して社有パソコン、タブレット端末、スマートフォンでの情報共有を進めた。建設中の主要な現場事務所には、ウェブカメラやNASサーバーを導入し、現場事務所と社内の情報を共有化できるようにした。現場写真の撮影にはGoogleドライブを利用し、施工管理の効率化を図った。また、これらのDX化に対応するため、本社ビルをリノベーションし、光ファイバーやWi -Fiといったインターネット環境を改善。オンライン会議に対応できる部屋の整備などをおこなったほか、利用頻度の低い部屋をフリースペースとし、不必要な机や椅子は処分した。ソフト面では、オンライン会議やコミュニケーションツール「Slack(スラック)」を全社的に採用。どこにいてもスマートフォンやタブレット端末などで連絡が取れるようにしたほか、会社内サーバーにアクセスできるリモートアクセスサービスを採用し、社外にいてもノートパソコンで同様の作業ができるシステムを確立した。
さらに令和2(2020)年5月、社内で若手社員を中心とした4人でIT推進化委員会を立ち上げ、本格的にIT化を進めた。背景にあったのは、新型コロナウイルス感染症の拡大だ。感染を予防するために人と人との接触が制限され、対面で会議や打ち合わせなどをおこなうことが難しくなった。こうした状況に対応しようとIT推進化委員会が中心となり、外部の専門家の指導を受けながら社内外での課題を洗い出し、優先順位をつけて取り組んでいった。まずハード面から取り組み、社員に社有のスマートフォンやタブレット端末を配付。社内のすべてのパソコンにマルチモニター化を進め、かつパソコン内のHDDをSSDに取り替えて作業効率を高め、オンラインストレージを利用して社有パソコン、タブレット端末、スマートフォンでの情報共有を進めた。建設中の主要な現場事務所には、ウェブカメラやNASサーバーを導入し、現場事務所と社内の情報を共有化できるようにした。現場写真の撮影にはGoogleドライブを利用し、施工管理の効率化を図った。また、これらのDX化に対応するため、本社ビルをリノベーションし、光ファイバーやWi -Fiといったインターネット環境を改善。オンライン会議に対応できる部屋の整備などをおこなったほか、利用頻度の低い部屋をフリースペースとし、不必要な机や椅子は処分した。ソフト面では、オンライン会議やコミュニケーションツール「Slack(スラック)」を全社的に採用。どこにいてもスマートフォンやタブレット端末などで連絡が取れるようにしたほか、会社内サーバーにアクセスできるリモートアクセスサービスを採用し、社外にいてもノートパソコンで同様の作業ができるシステムを確立した。
当初は、IT化やDX化に戸惑う社員もいたが、それぞれの課題に対して丁寧に説明を繰り返していったこともあり、少しずつ社内で浸透していった。顧客に対しては、当社のホームページから専用のIDとパスワードでアクセスすることで、工事の進捗状況を確認できるサービスを開始した。今後、ドローンを使って、現場を空撮して安全管理に利用したり、完成した建物の外観、内観を映像に収めたりすることもおこなう予定である。協力会社に対してもIT化、DX化を勧め、令和3(2021)年からは、協力会社との電子契約を始めている。また、電子帳簿保存法が令和4(2022)年1月から施行されたため、電子取引に対応している新しいソフトを導入している。さらに、会社の事業の広報として、インスタグラムなどのSNSを活用し、より一層広く一般の人に伝えていきたいと考えている。
2.SDGsへの取り組み
当社が進めるSDGsへの取り組みも紹介したい。まず、SDGsの主目的である「サスティナビリティ(持続可能性)」を念頭に置いた「ESG経営」だ。ESG経営とは、「Environment(環境)」「Social(社会)」「Governance(管理体制)」の3つの要素を考慮しながら経営に取り組むことをいう。近年は投資を判断する基準として重視されるようになり、企業のイメージアップにもつながるため、積極的に取り組む企業が増えている。当社は、自社に関係する社会課題として、大正、昭和初期に建設された近代建築の保存・維持が難しくなってきていることに着目。創業100周年を機に、創業から戦前までに関わってきた建築物の情報を収集・整理し、後世に残すこととした。その成果はこの100年史にもまとめられている。
第二次世界大戦下の空襲や大地震などで大きな被害を受けた東京や大阪と比べると、京都にはまだ当時の建物が残っている。それは、日本の住宅の歴史をひもとき、未来の住宅のあり方を考える上で貴重な資料となるものだ。しかし、それらは所有者や関係者の考え方一つで取り壊されてしまうこともある。京都や大阪を中心に、和歌山、名古屋、軽井沢などにも範囲を広げて調査を進める中でも、現在の所有者が「私はこの建物を残したいが、子どもたちがどうしていくのかは分からない」と不安を抱くケースが多々みられた。
こうした状況を受け、当社は所有者から古い建物の歴史や現在抱えている悩みを聞き取り、リノベーション工事を含めたアドバイスをすることで、建築物の保存に貢献しようとしている。また、調査を通して収集・整理した情報を広く発信することで、近代建築や町家などに触れる機会のなかった人々に対し、それらの魅力や文化的価値を伝えようとしている。こうした活動を通して、近代建築を何らかの形で利活用し、後世に残していくシステムが作れないかと模索しながら、建築業界に興味を持つ人を増やすことにもつながると考えている。英夫は「(近代建築の保存・利活用について)同じような想いを持った方々と連携しながら、自治体も巻き込んで進めていければと考えている」と話す。
第二次世界大戦下の空襲や大地震などで大きな被害を受けた東京や大阪と比べると、京都にはまだ当時の建物が残っている。それは、日本の住宅の歴史をひもとき、未来の住宅のあり方を考える上で貴重な資料となるものだ。しかし、それらは所有者や関係者の考え方一つで取り壊されてしまうこともある。京都や大阪を中心に、和歌山、名古屋、軽井沢などにも範囲を広げて調査を進める中でも、現在の所有者が「私はこの建物を残したいが、子どもたちがどうしていくのかは分からない」と不安を抱くケースが多々みられた。
こうした状況を受け、当社は所有者から古い建物の歴史や現在抱えている悩みを聞き取り、リノベーション工事を含めたアドバイスをすることで、建築物の保存に貢献しようとしている。また、調査を通して収集・整理した情報を広く発信することで、近代建築や町家などに触れる機会のなかった人々に対し、それらの魅力や文化的価値を伝えようとしている。こうした活動を通して、近代建築を何らかの形で利活用し、後世に残していくシステムが作れないかと模索しながら、建築業界に興味を持つ人を増やすことにもつながると考えている。英夫は「(近代建築の保存・利活用について)同じような想いを持った方々と連携しながら、自治体も巻き込んで進めていければと考えている」と話す。
また、昭和46(1971)年に下鴨に本社を移転した際に、本社屋上に稲荷神を祀る社と鳥居を建立した。その時以来、当社は、月初めに屋上にて月次祭を斎行していただく他に、建築の式典(地鎮祭・上棟式など)を執りおこなっていただく神職は御霊神社(上京区上御霊前通り)にお願いしている。御霊神社本殿の御鎮座年月は、「桓武天皇御宇延暦十三年(794)五月崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひし」をはじめとし、古くは神殿が左右両殿に岐れていたが応仁の乱で一社になったとされる、京都でも歴史ある神社である。また、御霊神社境内が京都市景観重要建造物の社寺第一号並びに歴史的風致形成建造物にも指定されている。この御霊神社をいつまでもあるべき姿で後世に守り伝えていくために、当社もできる限りの協力をさせていただいており、50年振りの御霊神社大修造に協賛し、
令和5(2023)年3月には感謝状をいただいた。
令和5(2023)年3月には感謝状をいただいた。
ESG経営と同様に、社会的な広がりを見せているのが「健康経営」である。SDGsは17の目標の一つに「すべての人に健康と福祉を」を掲げている。また企業理念に基づき、社員らへの健康投資をおこなうことは、組織を活性化させ、業績向上につながると期待されている。当社は、創業当時からの社是にあるように「健康は幸福の基」を考慮して健康経営に取り組んでいる。
建設業はもともと体が資本の仕事であり、建築現場にいる現場監督や職人は暑さや寒さ、湿度といった自然条件に直接さらされながら業務をおこなっている。また、多種多様な職人をまとめ、工事を進めていく現場監督は代わりが効かない。このため会社としても現場監督を含めた社員の健康を重要な課題と認識し、定期検診やがん検診の推進はもちろん、普段から体の不調や異変をきちんと自己申告できる環境づくりにも力を入れている。
3.ソーシャル企業認定制度S認証の取得
会社が取得しようとする認証の内容は、時代と共に大きく様変わりしてきている。当社は平成15(2003)年に品質国際規格ISO9001を取得、平成23(2011)年に環境規格KESステップ2を取得、そして、令和5(2023)年にはソーシャル企業認証制度S認証を取得することができた。S認証とは、ESG経営や社会課題の解決を目指す企業に対し、経営方針や事業内容、社会的インパクトなどを基準に、評価・認証をおこなう制度である。今の時代を生きる企業としては、当然取り組まなければならないことだと考えている。しかし、企業の社会的向上だけを目的にして認証取得に励んではならない、と常に自戒している。認証取得の際に、第三者委員会からは以下のようなコメントをいただいた。
・ 貴社の創業100周年史の作成をきっかけに企業理念や地元京都における実績を通じて、自社だけでなく業界の将来性を見据えた若手人材の育成や、50才以上の従業員に対する福利厚生にも力を入れておられる点と、これにより他の従業員のモチベーションの向上等にも繋げておられる点が素晴らしいです。
・ 社史編纂の取り組みが大変面白いと感じるとともに、資格取得に係る費用の負担をすることで資格取得者を増やし、既に実績として数名排出されている点や奨学金援助の取り組みは業界の発展にも効果的な取り組みであると考えます。
社名に刻まれた「ハイカラ精神」を強みに邁進
大正12(1923)年に山本磯十郎が京都高倉六条にてあめりか屋京都店を創業してから、一世紀が経った。創業当時は、和洋折衷スタイルの住宅はハイカラなものであり、注文住宅自体が富裕層の贅沢品とみられていた。しかし、現在では人々が自分の納得のいく住まいで日々の暮らしを営みたい、快適に過ごせる職場で仕事に取り組みたい、と考えることは当たり前になった。そして、今後は当社を含む建築事業者への期待はますます高まっていくと思われる。
当社はこれまで、古き良きものを大切にしつつ、新しさを求める「古くて新しい、新しくて古い会社」でありたいという思いとともに、西洋風および和洋折衷住宅から、機能的で洗練された建築まで、幅広い建築の施工に携わってきた。顧客の想いに真摯に耳を傾け、心の奥に秘めている夢を、こちらからさまざまな提案をすることで形にしていく。そうすることにより、「永続性のある美と快適さの創造」の実現を目指してきた。当社は、絶えず変化していく時代の感性やニーズを取り込みながら、長く続いてきた歴史を礎としたハイカラな建築物を生み出してきた。住まいの手本をアメリカに見出し、明治42(1909)年に東京で日本建築の良さを残しつつ、日本最初期の住宅専門会社を創業した橋口信助の思いが込められた社名は、山本磯十郎が京都の事業を引き継いで始めたあめりか屋京都店、現在の当社にも引き継がれている。英夫は、建築会社としては珍しいこの社名について「一度覚えていただくと忘れない。この社名は、当社の大きな強みです」と誇りに思っている。
「不易流行」という言葉にあるように、長い歴史が築いてきた「ハイカラ精神」を忘れず、顧客の夢を形にするものづくりの精神を大切にし、これからも新しいことに挑戦していく。その一つに、行政が民間の資金やノウハウを活用して公園を整備する「Park-PFI方式(公募設置管理制度)」を導入した工事への挑戦がある。京都市が所管する公園は938カ所あるが、今まで民間事業者による営利目的の活用は認められなかった。しかし、公園は地域に身近な施設であるにもかかわらず、十分に利用されていないケースがあることから、京都市は一部の公園について、公募制で事業者の活用を認める決定をした。園内に太陽光発電を用いて環境に配慮した新規のコミュニティ施設を建設するなど、建築会社が得意とするハード面だけではなく、ソフト面についても、地域の人たちとワークショップ
を開催することにより、人々の交流や地域のにぎわいの拠点となるようなイベントなどを提案できるような組織体制を構築していくつもりである。
このように京都の老舗工務店として、
当社は絶えず地域に密着した建築を心がけ、激動の時代、大正・昭和の経験を生かして、変革の時代・令和に向けて、
今後も京都らしい街並みの景観づくりに邁進していく。