戦前のあめりか屋京都店の仕事
Americaya Works of before World War II
第1節 資料から読み解く京都店の多彩な建築作品
第1節 資料から読み解く京都店の多彩な建築作品
京都店は、日本でモダンな建築様式が模索されていた大正後期から昭和初期にかけて、住宅やアトリエ、医院などさまざまな建築を手掛けた。昭和39(1964)年7月に発行された『経歴書』の前書きには、「開店以来今日まで当社の設計施工になる大小建物合せて壱千有余に及び其主なるもの左(一覧表のことをさす)に挙げますれば……」と書かれており、施工数が1,000件を超えていたことが分かる。これは社内に残る『経歴書』のうち最も古いもので、昭和38(1963)年に代表取締役に就任した2代目社長の山本米夫によって、会社の施工歴が一覧表形式で記されている。これらを種別や場所で分類すると、個人住宅が最も多い。そのほかには社屋や工場、病院、庁舎、商店、バー、喫茶店、旅館、神社などがある。
構造形式については、木造の他に、コンクリートブロック造、鉄筋コンクリート造、鉄骨造、軽量鉄骨造の建築も手掛けた。建設地は京都市内が最も多いが、京都市内に限らず、福知山市など京都府内でも確認できる。また、施工だけを請け負った建設地をみると、関西圏以外にも岐阜県や静岡県、愛知県、東京都など広域にわたっている。そしてこれらの多くは、関西圏に住む施主の会社の支店や別荘などがほとんどであり、京都店が施主から多くの信頼を得ていたことが分かる。
戦前期に刊行されていた『住宅』に掲載されている京都店の建築作品は、「スパニッシュ風」と紹介されているものが多い。この章で代表作品として紹介する林内科医院と加藤伍兵衛邸は「スパニッシュスタイル」で設計されており、このスタイルが京都店の建築作品の作風の特徴の一つといえる。なぜ、京都でスパニッシュスタイルが流行したのか、その理由については定かでない。しかし、京都店が建築の設計指導を受けていたこともある京都帝国大学の教授・武田五一は「スパニッシュ様式を、これからの日本の住宅にふさわしい様式であるとして推薦して」(中川理著『京都近代の記憶 場所・人・建築』思文閣出版)いたという。ただ、武田が推奨したスパニッシュ様式とは、完全なるスパニッシュではなく、外観的・意匠的要素を日本の住宅様式に取り込んだものである。
さて、京都店の建築作品をたどる資料として、『住宅』や『経歴書』の他に、『あめりか屋案内書』がある。これは自社設計施工の住宅を顧客に紹介するための冊子で、大阪店が発行した昭和9(1934)年度と昭和10(1935)年度の2種類と、京都店発行の1種類(発行年不明)が社内に残る。冊子にはその年以前に建築した住宅の中から、代表的な作品が取り上げられ、外観や内観の写真、平面図とともに住宅の紹介文が掲載されている。大阪店版は『住宅』の抜き刷りのような形で、図版として発行しているのに対し、京都店版は住宅の紹介に加え、建築にあたっての注文の流れや費用、設計の参考要件、あめりか屋式建築の特長、営業科目など、顧客が住宅を注文する際の具体的な方法が細かく記されている。
京都店ではさらに『AMERICA-YA YEARBOOK』と『あめりか屋年刊1928』『あめりか屋営業案内』を発行している。これらは大阪店版の『あめりか屋案内書』と似ており、建築作品数例の写真と平面図が掲載されているほか、巻末には建築にかかる費用の価格表や建築にあたっての案内が記されている。この冊子は、住宅以外の建築が紹介されている点に特長がある。別荘や学士会館、病院、飲食店、デパートや信用組合など多種多様な建築物が掲載されている。さらに、営業科目には、建築・家具・装飾・造庭の設計施工と書かれている。『あめりか屋営業案内』の「あめりか屋式建築の特長」という項目には、家具や収納棚、設備などをあらかじめ建築に組み込むビルトインという方法を導入していることが記されている。施工に関しては「全部請負」で、「普通の工務店と異なるところですが、当社は営利本位でなく芸術家の『アトリエ』のように一同働いております」とPRしている。
あめりか屋式建築の特長
弊店で設計施工致します住宅の特長は、ビルド、インであります。即ち簡単に申せば、布団と鍋釜とを御持ちになれば、住まひ得ると云ふことになります。風呂桶、風呂釜は、浴室がある以上必要となりますから、是等は最初から請負の中に入れます。電燈、瓦斯、水道も同時に施工致します。
台所の雑作即ち流し、七輪台は勿論、食器戸棚も造り付け、其の中には、米櫃、鼠入らず、抽出し、食器入れ等を含んで、全部造り付けに致します。台所に置く戸棚類は、一切不要です。玄関土間には、下駄箱又は腰掛等を造り付けますから、下駄箱を御求めになる事はいりません。広間には帽子掛、外套掛、洗面所には、鏡、又は化粧箱、脱衣場には脱衣棚等凡て御引越になつて、特別に必要以外の事は、一切建物と同時に施工致します。是れ等のものも、個々に御買求めになれば、案外の金額になります。其他建物の堅牢、便利、美観、経済なんと云ふ事は当然斯くあらねばならぬ事で、申し上げる迄もありません。
京都店は、自分たちが手掛けた住宅に長く住んでもらえるよう、さまざまな工夫を凝らしていた。昭和14(1939)年に木造建物建築統制規則が施行されたことを受け、規制がかかっている間の新築・改築・増築の方法について書かれた『時局下建築制限に関して・・御参考までに・・』には、新築の制限がかかっている間に建築した建物に「制限が解除されてから不都合なく一戸建てに改造できるように建築します」という宣伝文句がうたわれている。また、一般住宅において夏をいかに涼しく住むかについて書かれた冊子『涼しく住む工夫』には、住宅改良会会主の西村辰次郎と、編集主事の小林清、当時の京都店設計部に所属していた本間乙彦、大阪市立都島工業学校教諭であった渋谷五郎、増戸憲雄、中野順次郎らが集まって開催された座談会の記録がまとめられている。これらの資料をもとに、ここでは京都店の代表的な建築作品を挙げて、その建築的・意匠的特徴などを紹介する。
富岡鉄斎邸と富岡益太郎邸
京都店は芸術家の居宅やアトリエも多く手掛けた。その一つが、近代日本の文人画の巨匠である富岡鉄斎の旧宅である。『京都府の近代和風建築』によると、鉄斎は明治14(1881)年、小川流煎茶家元邸「後楽堂」の跡地を購入した。木造2階建ての本宅には別宅が接続しており、管理人用宅と鉄筋コンクリート造3階建ての洋館がある。別館以外は大正11(1922)年以前の建築とされている。昭和から平成にかけては一時、京都府議会議員公舎としても使われていた。
兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺内にある鉄斎美術館には、大正12(1923)年10 月のものとみられる鉄斎旧宅の設計草案と設計図が所蔵されている。また、武田五一設計とされる鉄筋コンクリート造の書庫(魁星閣)の建築請負契約書も残っており、そこには工事請負人として「山本磯十郎」の名が記されている。
鉄斎は天保7(1836)年に生まれ、大正13(1924)年に87歳で逝去している。孫の益太郎は幼少期、写真が趣味であったようで、鉄斎旧宅の設計図(実施設計とみられる)には「暗室」が描かれている。暗室は設計図の草案にはなかった部屋で、施主の注文を受けて追加されたものといえ、孫の益太郎への思いやりが感じられる変更である。その後、益太郎は鉄斎研究の第一人者となり、昭和50(1975)年に設立された鉄斎美術館の初代館長を務めた。
また益太郎は、アトリエ付き住宅の設計施工を京都店に依頼している。この住宅は昭和13(1938)年頃に建築された。『住宅』には、「富岡画伯の住宅」として紹介されている。敷地内には「表の家」と「裏の家」と呼ばれていた2棟があり、「表の家」は息子の家として建築されたようだ。庭園を挟んで北側に「裏の家」がある。「表の家」は木造2階建ての中廊下形式で、南面に食堂や居間、寝室などをもち、北面には台所や浴室などの水まわり関係の部屋が配されている。廊下の突き当たりには鉄筋コンクリート造の書庫(1階部分)とアトリエ(2階部分)がある。アトリエ部分を建物の北面に配置したのは採光を配慮した設計であり、均一な光を取り入れるために天井を高くとったアトリエらしい空間である。
なお、鉄斎の息子・謙蔵は東洋史学者で、大正から昭和にかけて活躍した風俗史学者の江馬務とも交流があった。京都店は江馬務の自邸の施工にも携わっており、社内には地鎮祭の様子の写真が残っている。
キング寮・旧新島会館
京都店が独立した当初は、大阪店の西村辰次郎と京都店の山本磯十郎が一緒に仕事を請け負っていたケースもあった。同志社大学校舎の仕事がそうである。社内所蔵のアルバムには、キング寮と旧新島会館の写真がある。
キング寮は昭和5(1930)年、同志社高等商業学校の寄宿舎として建築された。「キング」という名は、同志社の創立者である新島襄の母校、アメリカにあるアーモスト大学の総長であったスタンレー・キングの寄付によって建てられたことにちなむ。当時の同志社高等商業学校は入学者が年々増加し、校舎の建設費用はあったものの、寄宿舎の建設費用にまでは手が回っていなかった。そこで、寄宿舎建築の見積のために武田五一に設計図作成を依頼し、図面をみたキング氏からの寄付金申し出を受け、寮の建築に至ることとなった(『同志社百年史 通史編二』第二章 岩倉校地と同志社高等商業学校)。『同志社高等商業学校寄宿舎新築契約書』には、西村が昭和4(1929)年12月に寄宿舎の新築工事を請け負い、昭和5(1930)年4月20日の完成を目指して建築されたとある。また、契約書の文中には監督技師として「武田五一」が、文末には請負人「あめりか屋 西村辰次郎」の名と、保証人「山本磯十郎」の名前が並ぶ。おそらく独立前の京都店が独自で大規模な仕事を受けるためには、実績もありすでに信頼を得ていた大阪店が請け負い、それに京都店が参加するという方法をとったものと思われる。
竣工当時の写真を見ると、建物は木造2階建てで一方向に細長く伸びた形をしており、中央に玄関と三角錐の形状をした塔を備える。玄関には特徴的な庇と腕木がある。また、グラウンドに面して建てられ、窓が多く、開放的であった。『同志社百年史』によると、「寄付者の希望として、できるだけ住み心地のよいものをというので、この寮の内部はもとより、外観もすこぶる明るい感じの建物にして、他の学校にもこれほどのものは見当たらないようなりっぱなものであった」という。残念ながら、キング寮は昭和9(1934)年の室戸台風の被害を受けて倒壊した。『同志社百年史 通史編二』によれば、台風の翌年に2階の一部を削って再建され、戦後まで存続した。
施設の拡大のために建築されたキング寮に対して、旧新島会館は同志社校友会の寄付を募って、昭和7(1932)年に建築された建物である。建築請負契約書などの資料はなく、京都店がこの建築に携わっていたかどうかは断定できないが、同志社大学に残る工事写真には入口に京都店の工事看板が掲げられていること、また、社内に残る『経歴書』には旧新島会館も記載されていることから、工事に関与していたことは明らかと思われる。同志社大学蔵の『新島会館建設ニ関スル一件書類綴』には、建築にあたって、昭和4(1929)年7月13 日に「武田博士ニ依頼シテ新設計並ニ予算書ヲ作製中ナリ」とあるため、キング寮と同様に、武田五一との関係からの作品といえる。
スター食堂
京都店の代表的な店舗建築とされるのが、京都を中心に洋食レストランなどを展開し、現在は飲食関連で幅広い事業をおこなう「スター食堂」の一連の店舗である。
スター食堂は、アメリカで洋食を学び、帰国した西村寅太郎が、大正14(1925)年に京都の京極通り錦天神前にスター食堂」を開店したのが始まりである。昭和2(1927)年に「京極ソーダファウンテン」を開き、チェーン展開を本格的にスタートさせた。この頃から、モダニズム建築の第一人者である上野伊三郎が起用され、施工を京都店が担当した。上野は京都出身の建築家で、ドイツ留学やオーストリアでの修業期間を経て、スター食堂創業年と同じ大正14年に帰国している。帰国後、京都高等工芸学校教授で建築家の本野精吾らとともに日本インターナショナル建築会を結成し、会長を務めた。そして海外で交流していたヨーゼフ・ホフマンやブルーノ・タウト、ヴァルター・グロピウス、ヘリット・トーマス・リートフェルトらを会員として迎え入れた。会結成後の昭和4(1929)年には機関誌『インターナショナル建築』を創刊し、建築界におけるモダニズムの普及を進めていった。スター食堂も『インターナショナル建築』に取り挙げられ、店舗設計や新設備導入に関することが紹介された。
当時としてはかなり前衛的な意匠を凝らした上野の建築は、瓦屋根の建物が並ぶ京都の街で圧倒的な存在感を放ち、注目を集めていた。当時、京都店はスパニッシュ風の住宅をはじめとする西洋的かつ先進的な建物を手掛けていたことから、「新しい建築を推し進める」という点で、上野の意向と合致し施工を依頼されたものと思われる。ちなみに、社内蔵の『経歴書』には、現存していない建物も含めて10件(総本店、京極支店、四条支店、大宮店、千本支店、祇園支店、河原町支店、出町分店、店員寮、彦根支店)のスター食堂の施工記録が残されている。
昭和4(1929)年、寺町通りにオープンした総本店は、1階と2階が吹き抜けになった先進的なデザインが話題となった。昭和10(1935)年、錦天神前のスター食堂を改装オープンした「スターバー」は、全面ガラス張りの外観に「STARBAR」の文字が躍る斬新な建築で人々を驚かせた。
戦後の昭和28(1953)年には、京都店をはじめとしたスター食堂に関わる業者による「スター会」が発足した。戦後もスター食堂と京都店は良好な関係を続け、昭和
43(1968)年に岡崎公園横に開店したフランス料理店「ルレ・オカザキ」は、京都店が施工を担当した。また、昭和46(1971)年におこなわれた京都店新社屋の竣工式には、スター食堂の社長を招待している。良好な関係は現在も継続され、京都店はスター食堂の店舗の新規出店やメンテナンスなどをおこなっている。
43(1968)年に岡崎公園横に開店したフランス料理店「ルレ・オカザキ」は、京都店が施工を担当した。また、昭和46(1971)年におこなわれた京都店新社屋の竣工式には、スター食堂の社長を招待している。良好な関係は現在も継続され、京都店はスター食堂の店舗の新規出店やメンテナンスなどをおこなっている。
封川居
京都店が昭和初期に設計施工した代表的な邸宅の一つが、貿易商の井村健次郎が京都・山科に構えた邸宅「封川居」である。井村は大正末期から昭和にかけて活躍した実業家で、大正12(1923)年に染料商の合同会社「大阪合同株式会社」(現 オー・ジー株式会社)を創業する。井村は第1章で紹介したように、京都店との関わりが深い。封川居は昭和6(1931)年ごろ、現在の山科川にかかる封シ川大橋の北東側に建てられた邸宅である。地下1階・地上1階部分が鉄筋コンクリート造で、地上2階・3階部分の木造住宅は、かつて親族が住んでいたという八坂の住宅を移築したものである。5,000坪ほどの敷地内には庭園を造り、母屋の他に茶室、温室、鳥園、牧場、畑などがあり、養魚池やプール造りにも挑戦していた。また、道路との境界には門塀(表門)を設けて門衛を常駐させていた。建物の基本設計は井村自身がおこない、その基本的考え方を反映させ、実施設計と施工を京都店がおこなった。施主の趣向がよく反映された邸宅で、『素材がひらく暮らしの未来 オー・ジー株式会社75年史』の「創業者・井村健次郎略伝」には、井村の設計趣旨が次のように記されている。
「陽の当たる場所にお座敷を作り、掛軸や生花で飾りたてることの無駄。月に何回客が来るか来ないかも分からないのに。」
「肝心の家人は、陰の隅の部屋で寝起きし、生活にとって重要な台所と雪隠は、もうひとつ奥の暗くジメジメした所においている。」
これらの無駄や形式を排し、住む者にとって、明るく便利で快適な家を作ろうとし、しかも実際に完成させた。住まう人、訪れる人、双方にとって、誠に使い易く広々としたものとなった。過度な接客空間の排除と家族空間の充実化は、井村の住宅改良への思いを顕著に示しており、当時起こっていた住宅改良運動に強く影響を受けた主張であった。ここに記された具体的な住宅は、鉄筋コンクリート造と木造家屋が複合した形をしており、玄関には靴の泥を落とす場所を設け、靴を履いたまま室内を歩けるようにした。ホールの窓をガラス、網戸、紙張障子の三重にしたほか、応接間には低い仕切りを設けるなど、随所に井村のこだわりが感じられる。鉄筋コンクリート造の室内でも和の装いを感じさせる、和洋折衷の空間が実現した邸宅で、当時としては非常にユニークな建物であった。
井村の暮らしぶりは『住宅』で取り上げられ、数号にわたって記事「封川居拾遺集」が掲載されている。井村はこの記事で、「『封川居』という名前は、この土地で頻繁に起こっていた洪水が、弘法大師が水を封じることによってなくなったという言い伝えに由来している」と話している。土地の性質も踏まえたうえで場所を決めていたことが分かる。また、井村は広大な敷地に住居と農園を構え、米や野菜の栽培はもちろん、牛や豚、七面鳥を飼育するなどして、自給自足の生活を送っていた。母屋の2階では海外からの商客を招き、接待していた。『住宅』では、先の「スター食堂」の店舗設計で京都店と深い関わりをもつ建築家の上野伊三郎夫妻が、当時日本に滞在していた著名なドイツ人建築家のブルーノ・タウトを連れて封川居に訪れた際の様子が紹介されている。なお、タウトは桂離宮を世界に広めた最初の建築家としても知られている。
林内科医院
京都店は住宅建築のほかに、医院建築も多く手掛けた。病院建築もいくつかあるが、多くみられるのは個人経営の医院で、住宅と併設した形式を持つものだ。代表的な建築の一つに「林内科医院」がある。林内科医院は、後で紹介する「革島医院(革島外科病院)」とは異なる意匠的特徴をもつ。革島医院が施主の注文通りに施工されたドイツ風の建築であるのに対し、林内科医院は京都店らしさがよく分かる外観・内観をしている。玄関床には鉄平石とタイルが張られ、腰壁と煙突壁面には自由タイル製の手ごね風ボーダータイルが配される。自由タイル製のぽってりとした形のボーダータイルが、青みがかった色や茶色、クリーム色とランダムに配置されており、目を引くデザインである。玄関脇にある壁泉には、草色のボーダータイルに加え、薄茶色と淡コバルト色の泰山製陶所製の布目四寸角タイルが一松模様に張られている。さらに、玄関ポーチ上部は、母屋と付属建物をつなぐ露台(バルコニー)があるが、そのパラペット(扶壁)には薬掛円筒タイルが用いられている。
このタイルのデザインは、後に京都嵐山オルゴール博物館のオーナーが気に入り、当社にて「オルゴール館赤い靴嵐山店」の外壁に再現した。
建物は前部分を医院、後部分を住宅とし、付属建物がつく。敷地面積は300坪(約990㎡)ほどある。平面計画を見ると、建物の手前に医院用の玄関、中心部に住宅用の玄関を設け、入り口を分けている。医院の1階部分には待合、薬局、レントゲン室、診察室、看護婦室が配置されている。2階には書庫、書斎、看護婦室、客室、娯楽室、座敷、予備室がある。特に、応接間として使われた客室の内観には趣向が凝らされ、デザインの完成度が非常に高い。床はオークチークのボーダー入り寄木張りとし、造作材は塩地で日本松一部ナグリ仕上げ、壁は黒鼠色、天井は舟底型漆喰塗りとし、ナグリ仕上げの化粧梁をつける。そのほか、南面のストーブはイタリア産のトラバーチン(大理石の一種)を用い、床面は泰山製一寸二分角薬掛タイル張り、丸穴にはホワイトブロンズのグリルをはめこんだ豪勢な一室であった。また、診察室は施主の注文により、2室とも南に面するよう並べて配置された。意匠は全体的に、後述する加藤伍兵衛邸と似ており、京都店の技術を最大限に生かしている。住宅部分は玄関横に台所と女中室を配置、近接して食堂と主婦室、老人室を置き、生活の不便さを極力なくそうとした工夫がみられる。林内科医院の竣工年は不明だが、1938年1月号の『住宅』に掲載されているため、それ以前の建築とみられる。この頃は、子供室を設けるという思潮が芽生え始めた時期であったが、子どもの人数分部屋を用意する例はほとんどない。林内科医院の子供室の設置は比較的早い時期といえ、あめりか屋の先進的な建築的思想が読み取れる。
第2節 現存する京都店の建築作品
森啓次郎邸
京都店は大正12(1923)年創業であるが、初めて設計した建物については資料が残っていない。確実に京都店が設計施工をした建物として分かっている最も古い作品が、昭和4(1929)年頃に建築された「森啓次郎邸」である。森邸は京都出張所が設計施工した事例として『住宅』で紹介されている。施主の森啓次郎は、明治39(1906)年にアメリカに渡り、現地で成功を収めた美術商である。森は日本に帰国後、京都店に本邸の設計施工を依頼した。森邸が建つ山科区日ノ岡周辺は、昭和初期に九条山住宅地として開発された。建物は丘の斜面を切り開いて建つ木造平屋の一部2階建てで、全体的にはスパニッシュスタイルを基調としている。屋根は赤褐色のフランス瓦葺で、スパニッシュスタイルの特徴である粗い塗壁仕上げの外壁とともに、連続したアーチ窓が多用されている。
1階は居間や台所、食堂、2階に寝室、子供室を配し、居間をメインとした平面構成をしている。それぞれの部屋がホールで区切られた中廊下形式をもつ。建物の北側には便所・化粧室・風呂場が連続し、台所・配膳室と隣接している。配膳室は食堂につながっており、住人や女中らの動線がうまく考えられている。2階には主寝室・子供室・女中室があり、すべての部屋が無駄なく納められた、あめりか屋らしい設計である。また、当時としてはかなり先進的ともいえる、畳を使わない、椅子・ベッドによる生活様式を内部に取り入れており、居間やサンパーラー(サンルーム)には個性的な意匠のインテリアが用いられている。「旧森啓次郎邸主屋」は国の登録有形文化財(建造物)の登録基準のうち、「施主自らの発案によるデザインや生活思想を反映した昭和前期の洋風住宅」で“ 造形の規範となっているもの”として評価され、平成30(2018)年5月文化審議会に答申された。同年5月10日に住まいの近代化や京都の郊外住宅地開発の歴史を伝える重要な建物として、国の登録有形文化財(建造物)に指定された。
加藤伍兵衛邸
京都店最大にして最高傑作といえる建築の一つが、京都市内で昭和11(1936)年に建築された「加藤伍兵衛邸」である。施主の加藤伍兵衛は呉服屋を営んでおり、母屋の玄関横の竣工プレートには「設計施工 あめりか屋京都店」、「施主 9代目加藤伍兵衛邸」と刻まれている。
この建物とは別に、市内に店舗と本宅があったようで、社内所蔵のアルバムには竣工当時のものと思われる店舗の外観写真が残されている。このため、加藤伍兵衛邸に加え、店舗の工事にも京都店が関わっていたものとみられる。家業の影響もあってか、本宅は伝統的な日本家屋であった。一方で加藤伍兵衛邸は洋風の母屋に和風の付属建物が接続する形をもつ。庭は広く、池や噴水、門扉があった。東側の道路に面した門扉からは北面玄関まで石畳でつながり、玄関ポーチには車寄せが付く。石畳からは母屋の東面にあるテラスとその奥の居間が見えるようになっている。母屋の平面計画をみると、L字型の中廊下形式の住宅で、南面には食事室・座敷・居間が並び、家族のための団らんの空間が最も良い場所に配置されている。北面玄関の左右に、応接室と女中室などが置かれている。食事室には朝食室、台所が並んでつながっており、その先には脱衣所と浴室が並ぶ。水まわり空間ができるだけまとめられている。付属建物については和室が二間続きとなっていて、催事や接待のための仕事場として使われていたようだ。また、母屋は洋館であるものの、1階と2階にそれぞれ和室があるのに加え、ステンドグラスや壁画のデザインなどには和のテイストが用いられており、意匠に関しても施主のこだわりを感じさせる。
社内には本邸の前で撮影した社員の集合写真も残されている。写真には「あめりか屋京都店独立後」というタイトルが付けられ、創業者の山本磯十郎や当時の工事部部長・田村善三郎、福井県敦賀市で敦賀店を興した篠原恒造らが写る。本邸は京都店独立後の特筆すべき仕事のうちの一つであった。また、本邸の写真は『あめりか屋営業案内』の表紙にも使われている。
革島医院
林内科医院に加えて、京都店が手掛けた医院の中でも代表的な建築の一つが京都市中京区の「革島医院」だ。平成17(2005)年に「旧森啓次郎邸主屋」と同じく、国の登録有形文化財となった建物である。社内には革島医院の上棟式の写真が残る。ドイツに留学していた医学博士の革島彦一が日本に帰国したのち、留学中に見たツタの家を参考に自ら図面を引き、京都店に設計施工を依頼。昭和11(1936)年に「革島外科病院」として開院した。院内には待合室や薬局、手術室、レントゲン室、病室がある。昭和60(1985)年以降、入院患者の受け入れをやめ、2階の病室を閉鎖し、名称を「革島医院」に変更した。
建築にあたっては施主の要望が強く、何度も図面修正をしたことが革島医院の紹介冊子(『革島外科病院 御一覧の栞』昭和11年9月発行)に掲載されている。屋根にはフランス瓦が使用されている。円錐形の屋根を架したタイル張りの円筒形塔屋と対称に、格子窓を垂直方向に連ねたハーフティンバー様式の階段室を備えた外観が特徴的で、現在はツタに覆われている。木造3階建ての住宅併設型の病院であり、平面で見ると住宅部分と病院部分をつないだロの字型をしている。他にも平面に関して、いくつか特徴がある。患者が玄関から運び込まれた際、玄関からそのまま進むと診察室と包帯交換室がある。診察室の奥が住宅部分とつながっているため、急患にもすぐに対応できるようになっており、診察室を中心に包帯交換室や手術室、レントゲン室、研究室、薬局が配置され、患者の動線と医者の動線が交わらないよう、それぞれの部屋が並んでいる。また、冊子によると、玄関には、患者の傷口についた汚れを落とすことを目的として壁泉を設計したという。病院奥の角部屋には日光に当たる紫外線治療室がある。また、患者のためのレクリエーション施設として球戯室(ビリヤード)を置くなど、患者への配慮がみられる。このような点は、施主の意向を反映させた、当時の病院建築としては画期的かつ個性的な平面計画であった。
惜しくも平成23(2011)年に閉院したが、建物は現在も使用されており、京都店がメンテナンスを請け負っている。病院部分は、令和4(2022)年に文化庁京都移転関連事業として開催された「京都モダン建築祭」で一般に初公開された。
松殿山荘宝庫
山本磯十郎は茶道をたしなみ、京都の宇治にある松殿山荘茶道会流祖の高谷宗範(本名 高谷恒太郎)のもとへ通っていた。社内蔵の『経歴書』には、松殿山荘の茶道会事務所、講堂、宝庫が載っている。このうち唯一、竣工年は不明だが、京都店が施工したと伝わるのが宝庫であり、美術館として現在も使われている。宝庫は講堂と道をはさんで向かいに位置する、平屋建ての鉄筋コンクリート造の建物で、道に沿って長く伸びる形が美しい。玄関回りには大谷石や布目タイルが張られ、建物の内部には金庫、書斎、書庫などを備える。収蔵庫ではあるが、室内で茶会をしている写真も残っている。室内・室外ともに高谷の説く方円思想が反映されたデザインが用いられているのも特徴的だ。磯十郎の死後、昭和62(1987)年4月号の『新住宅』に掲載されたコラム「常安雑記」(小林清著)には、磯十郎への追悼の中で、松殿山荘のことにも触れられている。そこには「山本さんは茶をたしなみ、宇治木幡にある松殿山荘の高谷宗範宗匠のもとへよく通っていた。この山荘の初期の建築にはかの有名な平田雅哉棟梁も関係していた。山本さんは、たしかここの大広間だったと思うが、その仕事を請負ったし、次はRC造の美術館(収蔵庫)の仕事を引受けて、その設計を筆者が担当した記憶がある」と書かれている。社内には松殿山荘大玄関で撮られた集合写真が残る。松殿山荘茶道会平岡己津夫代表理事によると、この写真は昭和10(1935)年5月11日から3日間おこなわれた高谷宗範の三回忌の茶会のものだという。写真の人物は茶会の委員らであり、磯十郎と松殿山荘との深い関わりを知ることができる。
堂本印象アトリエ
京都店は画家のアトリエもいくつか手掛けている。特筆すべきなのが、大正から昭和にかけて活躍した日本画家、堂本印象のアトリエである。施主の堂本印象は明治24(1891)年に京都で生まれた。棟札には、「施主 堂本三之助」と本名が書かれている。印象は昭和初期、仁和寺や東福寺などの寺院に障壁画や天井画などを手掛けたことで知られている。アトリエは、京都市北区にある京都府立堂本印象美術館の向かい、堂本印象邸の北側に現存する。棟札から、昭和34(1959)年に完成したことが判明している。鉄骨と木枠を組み合わせた軽量鉄骨造の平屋建てで、木造住宅がほとんどの当時としては特殊な構造であった。部屋が2室と洗面便所があるだけのシンプルな平面をもつ。
アトリエができる4年前、昭和30(1955)年に「日本軽量鉄骨建築協会」が設立されている。この頃から小規模建築物に軽量形鋼を導入する研究が始まったとされ、この研究開発によって昭和30年代半ばから、日本の企業による主要構造に軽量形鋼を用いた住宅販売がすすめられた。アトリエが完成したとき、印象は68歳で、この頃の作風は抽象表現へと変化していた。アトリエも作品の一つとしてとらえることができる。内部をみると、前衛的なデザインではあるが、ピンクや青、緑色と多彩な色彩も岩絵具に似た色合いにまとめられている。当時としては先進的な工法を用い、かつ、印象独自の表現が発揮されたアトリエは、印象のこだわりと、京都店の新しい技術を取り入れようとする不断の努力が感じられる建築といえる。なお、アトリエの完成から4年後の昭和38(1963)年には、「山崎家及び臼井家別荘(セキスイハウスA型)」が建てられている。セキスイハウスA型は、軽量鉄骨にアルミサンドイッチパネルを取り付ける構法で作られ、居室に水まわりを備えた本格的な工業化住宅である。国産第一号であることが評価され、平成28(2016)年に国の登録有形文化財となった。積水ハウスが本格的にプレハブ住宅を開発、販売し始めたのが昭和35(1960)年頃からであるため、それ以前に建てられた堂本印象アトリエは、かなり先進的・挑戦的な建築であったといえる。現在、アトリエは立命館大学が所有しており、今後の活用に向けての検討が進められている。
今なお大切に住み継がれている住宅の数々
施工当時から、今もなお大切に住み継がれている住宅がある。そのうち、『住宅』や関連の書籍などに掲載があった代表的な住宅を紹介する。
F邸は、『あめりか屋年刊1928』に掲載された京都店設計施工の住宅であり、所有者がかわって今もなお住み継がれている。間口が狭く、東西に長く伸びる長方形の敷地に建つ。庭はほとんどないが、川沿いに建てられているため、川を景観に含めたつくりとなっている。外観は側面(南面)から見ると複雑に見えるが、正面(西面)・背面(東面)から見るとすっきりとした形をしている。平面計画は、中廊下形式で、玄関横に応接室がある。現在も内観・外観ともにほぼ施工当時のまま残る。1階は応接室が他の室とホールで仕切られており、家族室と区切られた計画がなされている。食堂と台所は隣接しており、その横に浴室がつく。水まわりの動線処理もよく計画されている。また、洋室の居間と子供室は続き間になっており、建物の一番奥に配置されている。建物の奥は東側の川がよく見える。2階は寝室、子供室、客間・次の間がある。子供室はベッドや机が造り付けてある。和室は寝室と客間のみで、他は洋室である。客間には床棚と縁側が付き、次の間には和風のサンルームが付いているのが特徴的だ。また、2階の正面側にはバルコニーを、背面側にはサンルームと縁側を設けていることから、眺望へのこだわりが強く感じられる。
O邸は、昭和5(1930)年8月号『住宅』に掲載された。『住宅』には「設計施工 大阪あめりか屋」とあるが、施工の時期や立地からすると京都店が関わっていた可能性が高い。敷地はほぼ正方形で、南東側に庭を置く。外壁はドイツ壁、腰壁には布目タイルを張った京都店らしい外観意匠だ。住宅の1階平面は十字の中廊下形式で、四つに区分されている。北東には食堂、南東には居間、南西には応接室、北西には台所や浴室などの水まわりの室があり、整った配置をしている。加えて、2階には寝室や子供室、書斎などの家族用の部屋がある。随所にこだわりが感じられる内装で、書斎と子供室には机や書棚などが造り付けられ、2階へ上がる階段室の踊り場の窓の上に付けられた3段のステンドグラスが印象的である。1階の応接室と玄関にもステンドグラスがあり、一体的なデザインが用いられている。O邸は京都店のカタログ『AMERICA-YAYEARBOOK』にも掲載された。外観のほか、内観写真がいくつか掲載されていて、当時の代表的な住宅作品の一つである。
I邸は、昭和7(1932)年12月号『住宅』に掲載された。京都店の設計施工で、当時使われていた家具や設計図面などが残る。竣工時の外観は赤褐色太平瓦葺き、壁は薄クリーム色のセメントスタッコ仕上げ、腰壁はタイル張りで人造石洗出しであった。現在は外壁が薄桃色に塗り替えられているが、それ以外は今も往時の姿をとどめている。玄関ポーチには2種類のタイルが張られ、壁泉がつく。この壁泉は手洗いのために設けてあり、吐水口の獅子はユニークな表情をしている。門扉はなくなっているが、昔の写真によると、門から応接室が見えたようだ。玄関は門から少しずらした位置に配置し、来客から直接見えないように工夫されている。玄関と内玄関、2階の寝室、さらにはサンルームにも手洗いが設けられ、外には壁泉がある。この壁泉は同時期の革島医院のように汚れを落とす目的で設計されたものと考えられる。合計すると、敷地内に6カ所も独立した手洗いがある。京都店が手掛けた他の住宅でも壁泉や玄関の手洗いはよくみられるが、これだけ多く造られた理由には、当時は感染症が流行し、医者であった施主の特段の注文があったからだろう。平面計画をみると、I邸も他の住宅と同様の中廊下形式住宅で、南面に居間や応接などの主要室、北面には台所や水まわり室を設けている。台所の左右には茶の間と土間(内玄関)があり、さらに、土間の向かいには主婦室が、横には女中室がある。これらから、家事動線がしっかり計画されていることが見てとれる。
T邸は、昭和13 (1938)年2月号『住宅』に掲載された。京都店の設計施工で、外観は伝統的な日本家屋に応接室がつく形をしている。間口はやや狭く、敷地は奥に長く伸びる。平面は、日本間4室が中心となる「四ツ目建(田の字型)」形式で、廊下を挟んだ向かいには応接室や水まわり室などの諸室を備えている。2階にはサンルームがあるが、これは洋風ではなく、広縁のような日本的な意匠となっている。また、1階玄関横を応接室としていたり、2階南面角の子供室を洋室としていたりと、伝統色を強く残しながらも洋風化を取り入れた住宅といえる。