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第1章

あめりか屋京都店の濫觴
The Beginnings of Americaya Kyoto Branch

第1節 あめりか屋京都店のはじまり

あめりか屋と京都店

山本磯十郎(37歳)
 あめりか屋は、明治42(1909)年に、宮崎県出身の実業家である橋口信助が東京で創設した日本最初期の住宅専門会社である。主な顧客は西洋式の住まいに興味がある富裕層で、地方で注文があった場合は、建設地に応じて出張所を開設していた。

 初めて出張所を開設したのは長野県の軽井沢で、関西では大阪出張所を、他には九州出張所や名古屋臨時出張所などを開設した。大正12(1923)年には、当時の大阪出張所の所長である西村辰次郎が、大阪を中心とする関西圏の営業権をあめりか屋から買い取り、大阪出張所を大阪店として独立させた。京都店のはじまりについて、具体的なことは分かっていないが、大阪店の独立と同時期にあめりか屋の関西圏における新しい出張所として開設されたのが京都出張所であり、これが京都店のはじまりであるといわれている。

 京都店が最初に店を構えたのは、高倉六条下ル角(京都府京都市下京区升屋町65)である。社内所蔵のアルバムには社屋外観および内観の写真と平面図が残る。

 昭和6(1931)年に京都店に入り、後に大阪店に籍を移した小林清の著書『常安雜記』などによると、小林が入社した頃の京都店は「いわば小規模な工務店」の様相で、京都店では当時「工事係に二人、設計係にも二人」が働いていた。本書には「建築の依頼(主として住宅、商店、医院など)があると、設計図を作成、見積をして、工事の契約ができれば、工事係がその仕事を進めて行く、という仕組みで運営されていた。そして店主は時々工事現場に出て、その進捗状況を見て廻っていた」と記されている。磯十郎の妻・よねは、「(磯十郎は)現場に落ちている釘を拾ってポケットに入れるので、ポケットに穴が開いて困る」と愚痴をこぼしていたという。
『常安雜記』表紙
 社内に残る工事記録などによれば、京都店開設から昭和6(1931)年前後にかけては、京都店は大阪店と共同で建築の設計施工をするケースもあった。しかし、事業が軌道に乗り始めると、京都店独自で仕事を請け負うようになり、社員も増えて、固有のスタイルを築き上げていった。工事記録には昭和10(1935)年頃の施工事例が最も多く、また、京都店が設計施工をした現存している住宅の調査では、スパニッシュ様式を基調とする同様の外観の住宅が複数みられ、この頃に京都店の作風が確立していたと考えられる。

 『経歴書』(京都店が手掛けた施工事例などを記した冊子)からは、京都店が対象としてきた顧客についても知ることができる。施主の多くは文人・画家などの文化人とともに医者・実業家などの経済的に豊かな人々が多い。文化人には、文人画家として著名な富岡鉄斎や日本画家の堂本印象などの名前が記されている。また、建設地を見ると京都市内が大半だが、府内各地、さらには府外からも多くの依頼があった。これらは、人づてに京都店の評判を聞いた施主からの依頼で建てたものだろう。それは、京都店の仕事が信頼される質を備えたものであったことをうかがわせる。そして、この京都店の仕事の質の高さの源の一つが、社是に示されている。現在の京都店の社是は、創業当時から継承されているもので、磯十郎が茶会で知りあった建仁寺の第8代管長の竹田益州(えきしゅう)にしたためてもらったものである。

一、健康は幸福の基 一、質素は安定の基 一、努力は繁栄の基 一、誠實は信用の基 一、反省は向上の基
 当社はこの社是を大切に、顧客の思いに寄り添いながら、今もすべての現場事務所に社是を掲げている。ちなみに、社内には社是とともに、茶道の心をあらわす「和敬静寂」の額が飾られている。これは祇園辻利本社ビルを平成25(2013)年に竣工した際に、祇園辻利5代目社長で、当時は会長職に就いていた三好通弘(みちひろ)から竣工記念として贈られたもので、これも建仁寺管長の筆である。磯十郎は竹田益州を通して三好通弘と知り合い、初代の祇園辻利本社を建築した。平成23(2011)年に竣工した3代目の祇園辻利本店も、当社が手掛けている。

「西双ヶ丘住宅展覧会」と京都店

『西双ヶ丘住宅展覧会』冊子
『西双ヶ丘住宅展覧会』冊子
 大正から昭和の初めにかけては、伝統的な生活様式にとらわれずに、新しい時代に対応する生活様式を模索する動きが加速し、東京や大阪などでは西洋式や和洋折衷の理想的な住宅を、広く一般に認知させるための展覧会が開催されるようになる。京都では昭和9(1934)年11月15日から12月10日にかけて、「西双ヶ丘住宅展覧会」が開かれた。主催者である住宅改良会は、もともとあめりか屋に編集局を置き、『住宅』を発行していたが、昭和6(1931)年、編集局を大阪店に移転させている。これは、大阪店の店主・西村辰次郎が昭和6年5月に住宅改良会の会主に就任したことに伴うものであった。また、昭和7(1932)年1月には磯十郎も住宅改良会の監事に就いている。

 展覧会は翌年に創立20周年を控えた住宅改良会が、記念事業として京都西双ヶ丘分譲住宅地事務所と提携して開催したもので、嵐山電鉄が後援した。会長は、住宅改良会顧問で「関西建築界の父」として知られ、アメリカ人建築家のフランク・ロイド・ライトとも親交があった建築家・武田五一が務めた。一方で磯十郎は、賛助員として名を連ねている。
 展覧会の開催地は、京都市右京区、仁和寺の西側にある国指定名勝・雙ヶ岡のふもとに造成された。展覧会を前に、住宅改良会は設計図案を募集。優秀作品と評価された図案に基づき、京都店、熊倉工務店、住宅改良会、千原工務店の4社・団体がそれぞれ2戸ずつ、計8戸の住宅を出品した。これらの住宅は、展覧会会長の武田五一、副会長の西村辰次郎、顧問の井村健次郎と葛野(かどの)壮一郎らによって審査され、長所や改善点などの指摘を受けたのち建築、分譲された。京都店出品の2戸は、竣工当時の写真が社内に今も残る。また西双ヶ丘住宅展覧会は、住宅改良会の主催で開催した5回のうち、最後の展覧会とされる。

 なお、京都西双ヶ丘分譲住宅地事務所の経営者である加藤伍兵衛は、京都を代表する半襟呉服を扱う加藤伍商店の経営者でもあり、この展覧会を機に、京都店と深い信頼関係を持つこととなる。展覧会ののち、昭和11(1936)年には加藤伍兵衛邸の設計施工を、翌年には本業である加藤伍商店の四条大宮の社屋を京都店が請け負った。こうした人とのつながりが、京都店の顧客の幅を広げる機会となっていった。

第2節 あめりか屋京都店に関わる人々

山本磯十郎とまわりの人たち

 京都店を創業した建築家・山本磯十郎は明治19(1886)年、福井県遠敷(おにゅう)郡上中町(現 三方上中郡若狭町)で生まれた。もともとの姓は的場であったが、結婚後に山本姓となる。大正4(1915)年3月に東京高等工業学校(現 東京工業大学)を卒業し、同年4月から大正6(1917)年8月まで神奈川県立工業学校に教員として勤務した。理由は不明だが、大正6年8月に教職を辞し、大正9(1920)年3月にあめりか屋に入社し、大阪出張所に配属された。京都出張所に異動したのは、大正12(1923)年、磯十郎が37歳の時で、以後、昭和37(1962)年まで代表を務めた。
蔵前京都支部同窓会(山本磯十郎宅にて)
蔵前京都支部同窓会(山本磯十郎宅にて)
 磯十郎は京都店を運営する一方、人材を育成する教育者の面も持ち合わせていた。磯十郎が社長を退き、会長であった時代に働いていた大工の松宮与一は、磯十郎から「小さな仕事でも魂を込めて、一生懸命向き合いなさい」と教えられたと語る。また、磯十郎は生粋の茶人でもあった。京都の宇治にある松殿山荘茶道会流祖の高谷宗範のもとへ通うだけでなく、昭和13(1938)年には財団法人松殿山荘茶道会理事に就任している。高倉六条の社屋2階には茶室を構え、友人や知人としばしば茶会を開いていた。現在の京都店社屋の5階にも、磯十郎が使った茶室がある。この茶室は松宮が施工したもので、社内には図面が残されている。
 
 また磯十郎は、東京高等工業学校の同窓生やあめりか屋で出会った人々など、建築関係者や建築に興味がある著名人らと幅広い交友関係を築いていた。東京高等工業学校の同窓会の京都支部である蔵前京都支部同窓会や同期のクラス会とのつながりも深かったようで、磯十郎の同窓生の実業家の松風嘉定(しょうふうかじょう)が磯十郎に送った蔵前京都支部秋季大会に関する葉書や、清水産寧坂にあった磯十郎の自邸でおこなわれた蔵前京都支部同窓会の写真などが残っている。
西村夫妻(左側)と山本夫妻(右側)
西村夫妻(左側)と山本夫妻(右側)
 あめりか屋とも関係が深い建築家の武田五一とは、多彩な事業で連携している。社内所蔵のアルバムには、同志社大学旧新島会館や、京都・岩倉に建設されたキング寮(同志社高等商業学校寄宿舎)の建築写真が残る。キング寮の建設には、武田と磯十郎のほか、大阪店店主の西村辰次郎も関わっていた。昭和4(1929)年12月付の建築契約書には、武田に監督技師を委嘱することが記され、請負人に西村、保証人として磯十郎の名前がある。京都店として独立した後も、西村のつてで仕事を受けることもあったのであろう。武田と磯十郎は、文人画家の富岡鉄斎邸の建築でも関わりがあったとみられ、さらには武田の3番目の自邸は京都店が施工したと伝わる。

 磯十郎は、西村とは特に親交が深く、私的にもたびたび行動を共にした。両者とも東京高等工業学校の出身で、卒業年は異なるが、一時期あめりか屋の顧問となる東京高等工業学校建築学科の初代学科長である滋賀重列と滋賀の愛弟子であめりか屋取締役だった吉田全三の教え子という共通点をもつ。磯十郎と西村がやりとりした手紙は現在も残っており、親密な様子が見て取れる。社内所蔵のアルバムには京都店の2代目社長・米夫の字で「父の親友であり、大阪店代表者である西村氏夫妻と写す」と書かれた写真が残っており、仲の良さがうかがえる。
 京都店は、化学工業薬品などを扱う専門商社であるオー・ジー株式会社の前身、大阪合同株式会社を設立した貿易商の井村健次郎からは、自邸「封川居(ふうせんきょ)」の施工のみならず、前述の西双ヶ丘住宅展覧会や建築設計図案募集「井村賞」など、さまざまな事業で支援を受けていた。

 磯十郎は、フランク・ロイド・ライトの作風を得意として名を馳せていたあめりか屋本店の技師の高島司郎とも交友関係があった。高島は大阪店が手掛けた香川県多度津町にあった「武田謙邸」の設計を担当していた。社内には武田邸の工事写真と、高島から磯十郎に宛てた暑中見舞いの絵葉書などが残る。
磯十郎と京都店の職員たち
磯十郎と京都店の職員たち
 初期の京都店を支えた人物に、首藤重吉(すとうじゅうきち)、田村善三郎、藤松義明の3人がいる。昭和初期の京都店で一時働いていた小林清が『住宅』に寄せた文章には、「(設計の)先任者のSという西野田工業を出た人は実務に詳しく練達の人で、前の晩家にあってあくる日の設計の構想を練って来て、仕事場ではスラスラと脇目もふらずに図面を書きあげていく」とある。また「工事係のTは、山本さんがかつて横浜の工業学校で教鞭をとっていた時の教え子で、小柄であるがこまめに現場を見廻っていた」とも書かれている。京都店で首藤は設計部部長、田村は工事部部長を務めていた。加えて、社内に磯十郎と首藤、田村が3人で写った写真が残っていることなどから、このSは首藤を、Tは田村のことを指すとみられる。

 首藤は明治34(1901)年に愛媛県周桑(しゅうそう)郡(現在の西条市)で生まれた。大正10(1921)年3月に大阪府立西野田職工学校本科建築科を卒業後、同年11月まで大阪店に勤務。昭和5(1930)年3月から京都店(このときは合資会社あめりか屋)で働き始めた。昭和27(1952)年に一級建築士を取得。最終的には設計部部長となり、戦後も京都店を支えた。田村は神奈川県出身で、大正6(1917)年3月に神奈川県立工業学校建築科を卒業。大正7(1918)年から大正11(1922)年までの間、大林組に勤めた。大正13(1924)年から昭和3(1928)年までの間、京都市の山本工務所に勤めたのち、自営業を経て、昭和5年1月に京都店に入った。その後は工事部部長として首藤とともに京都店を支えた。首藤と田村はいずれも磯十郎が独立して興した京都店の設立時に入社している。独立して独自の活動を目指した京都店の事業を確立し、展開していくための重要なメンバーであった。

 また、社内には他に数人分の「労働者名簿」が残っている。山本賢一は、磯十郎と同じ福井県遠敷郡上中町出身で、会計部に配属されていた。同郷の職員では他に戦後に入社した中川益雄がいる。中川は京都市立第一工業学校建築科を卒業後、大阪工業大学専門学院建築学科に進学、卒業。その後いくつかの会社を経て昭和43(1968)年に京都店に入社している。入江武郎は鳥取県生まれで、京都市立第一工業学校建築科を中川より早い昭和10(1935)年に卒業したのち、京都店に入社した。昭和23(1948)年の株式会社化に伴い取締役に就任、昭和34(1959)年には専務に就任している。平井七三一(なみいち)は京都市立第一工業学校建築科を卒業後、昭和10(1935)年から昭和13(1938)年まで京都店に勤務していた。住宅改良会が主催した「井村賞中流住宅懸賞設計図案」(1934年)や「中流住宅懸賞設計図案集」(同)、「小住宅懸賞設計図案第一部・第二部」(1935年)、「小住宅懸賞設計図案」(1938年)などで設計案を提出、入選・佳作を受賞している。

 戦後も事業が安定し始めた昭和40年代前後には多くの社員を迎えた。例えば、光安辰美は福岡県出身、父親は清水建設株式会社に勤めていた。京都店へは23歳の昭和38(1963)年に入社している。濱谷義孝は香川県生まれで、香川県立高松工芸高校の定時制建築科を卒業後、日本電建高松支社に入社した。同社の大阪支社に転勤後、昭和39(1964)年に京都店に入社し、工事部に配属された。ちなみに前述した中川も、一時期日本電建で勤務していた。大阪市出身の村井征治は、昭和31(1956)年に京都市立伏見高等学校建築科を卒業後、建設会社を経て、昭和33(1958)年に京都店へ入社し、京都店舞鶴出張所へ出向。昭和41(1966)年に京都店に戻り、濱谷のいる工事部に配属された。そのほか、石田、植松、井俣など職員の名がアルバムに残る。

 京都店には京都市立第一工業学校建築科の卒業生が多く入社していた。これは磯十郎が当時同校の校長であった渋谷五郎と親交があったためである。社内には磯十郎と渋谷五郎、西村辰次郎、本間乙彦、小林清が写った写真が残る。小林は著書で、「(京都店の)仕事ぶりが誠実だったので、家を建てた人からの口コミで仕事が次から次へと生まれてきた」と当時の様子をつづっている。確かな技術力だけでなく、仕事に対して真摯に向き合える人材がいたことが京都店の強みとなった。
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